第87話 三つの力
封印の間の空気が、変わった。
瘴気が濃くなっている。亀裂の端から立ち上る薄紫の霧が、空洞の下半分を覆い始めていた。呼吸のたびに胸の奥が焼ける。
「濃くなってる。息は浅くしろ」
リーナが全員を見渡した。紫の瞳に迷いはなかった。
「ミーリアさん、大地の癒しを。カイトさん、核を安定させて。わたくしが旋律を整えます」
「はい!」
「命令するな。でも、やってやる」
カイトが封印の中央へ歩き出した。瘴気の中を躊躇なく進んでいく。亀裂の真上に立ち、足を踏み締めた。足元の岩が軋む音がした。ソフィアが数歩後ろで見守っている。拳を握り締めたまま、一歩も動かない。
リーナが空洞の高い位置、紋様の外縁に立った。紫の瞳が金色に輝き始める。
その指が宙を切った。三度。最後に南東で止まったまま、動かなくなった。
「ミーリアさん、そこから。いちばん薄くなっていますわ」
「わたくしが順を出します。わたくしが言うまで、次へ移らないで」
「合図を待ちます」
ミーリアは南東の亀裂の前にしゃがみ込んだ。膝が冷たい岩に触れる。手袋を外し、両手を床に押し当てた。
目を閉じた。
星脈の流れを探る。大地の奥深く、百年前にアリーシアが紡いだ封印の脈が、細く震えながら生きていた。弱々しい光。指先が触れると、脈の側から震え返してくる。
「まだ動いてます。この脈、まだ生きてます」
ミーリアの瞳が白銀に変わった。
「星脈よ、応えて。この大地を癒して」
指先から光が溢れた。白銀の脈が床を走り、亀裂に沿って流れ込んでいく。裂け目の端から、ゆっくりと岩が再生し始めた。
ソフィアが一歩下がって、また戻った。
「熱い。床が、靴の下から熱い」
亀裂が塞がっていく。一センチ、二センチ。岩と岩の間を白銀の光が埋め、新しい紋様の線が浮かび上がる。古い層の上に、新しい層が編まれていく。
フェリクスがミーリアの背後に立ち、精霊たちに声をかけた。
「フィル、テラ、アクア。力を貸せ」
三体の精霊が同時に光った。フィルの翡翠の風がミーリアの周囲を包み込む。テラの茶色い光が足元の地面を支え、岩盤の振動を抑えた。
アクアの青い輝きが空気中の水分を集める。冷たい霧がミーリアの首筋に触れた。薄紫が、その分だけ後ろへ退いた。
「風はこのまま回す。ミーリア、背中に触れるぞ」
フェリクスの掌がミーリアの背に触れた。指の付け根が汗で滑る。
* * *
北西の亀裂にも光が届き始めた。
ミーリアが南東を癒しながら、星脈を通じて範囲を広げている。半径十メートル、二十メートル。光の脈が床を伝い、北西の縁まで届いた。
その時、中央で別の力が動いた。
カイトが封印の核に手を当てていた。体から七色の光が漏れ出している。炎の赤、水の青、地の茶、風の緑、光の金。あらゆる色が混じり合いながら、核の亀裂に流れ込んでいく。
ミーリアの星脈共鳴が、その波動と重なった。
「カイトさんの力がわたしの力と……共鳴してる! 温かい」
予想もしなかった。核紋を通って流れ込んでくるカイトの力は、荒々しいのに根の部分が温かい。
「カイトさん、もう少し右へ。わたしの脈とぶつかってます」
「うるせえ、今やってる。……こうか」
二つの流れが床の下で合わさった。白銀が一段明るくなる。
上のほうで、リーナが息を吸う音がした。
「ミーリアさん、北西の裂け目にもう少し力を。あと三割ほど足りませんわ」
「はい!」
意識を北西に向ける。白銀の脈がそちらへ流れを変え、北西の亀裂にも光が注ぎ込まれていく。
手のひらを岩の目地までずらした。爪の先が砂を噛む。
「北西、届きます。もう少しだけ深く探ります」
「旋律が整い始めた。あと少し、もっと深く!」
ミーリアは手のひらに力を込めた。もっと深く。星脈の根に触れるまで。
体が熱くなった。指先の感覚が薄れていく。頭の芯が痺れ始める。こめかみの奥で鋭い痛みが走った。視界の端が白く滲んでいく。
「ミーリア! 体が光ってるぞ。大丈夫か」
フェリクスの声が遠くから聞こえた。全身が白銀の光に包まれている。体の輪郭が見えないほどの光。
「大丈夫です。まだ、もう少し」
光の範囲が広がる。半径五十メートルを超えた。空洞の床全体に白銀の脈が行き渡り、古い亀裂が次々と塞がっていく。
けれど体が追いつかない。
髪の毛先が白く変わり始めた。栗色の中に、白い筋が走る。一本、二本。気づけば十本以上が白銀に変わっていた。
「ミーリア! 髪が」
フェリクスが叫んだ。ミーリアの横顔が見えた。白銀に輝く瞳。額に汗が浮き、唇が微かに震えている。それでも口の端は上がっていた。
「知ってます。あとで、切ります」
精霊たちが一斉に鳴いた。
〈限界。もう無理。止めて〉
フェリクスは歯を食いしばった。風属性の力を全開にし、精霊たちの力を集めてミーリアの体に送り込む。自分の体力を削るつもりだった。体内の風属性が腕を伝い、ミーリアの背中に触れた掌から流れ込んでいく。
「俺が負荷を分散させる。精霊の力をお前の体に流す。だから止まるな」
翡翠色の風がミーリアの全身を包んだ。体の痺れが和らぐ。頭の芯の痛みが薄れる。フェリクスの力が、限界に達しかけた体を内側から支えていた。
「フェリクスさん……ありがとう」
「礼は後だ。集中しろ」
カイトが中央で膝をつきかけた。全属性を注ぎ込み続ける体が軋んでいる。ソフィアが肩を支えた。
「カイト! 体が持つの?」
「まだ手が動く。肩、押さえてろ」
「押さえてる。離さないから」
カイトの全身から光が噴き出した。炎、水、地、風、光、闇。六つの色が封印の核に流れ込み、暴走を抑え込んでいく。
リーナの声が天井から降ってきた。
「もう少しですわ。旋律が揃いかけている」
三つの力が空洞の中で渦を巻いていた。
亀裂の縁が寄り、線が一本につながった。薄紫が天井のほうへ抜けていく。息を吸っても、もう胸は焼けなかった。
その時。光の奥から声が聞こえた。
古い声。震えているけれど、温かい声。
「お願い。わたしが守れなかったものを、あなたたちが——」
ミーリアの瞳が見開かれた。
この声を知っている。聖樹で受け取った記憶の断片。百年前、この場所で一人きり封印を施した女性の声だ。
「アリーシアさま……」
声は途切れた。
けれど空洞の空気が変わった。薄紫が薄れ、白銀の光が静かに降りてくる。ミーリアの肩に、その光が落ちた。
「……終わったのか」
「まだですわ。でも、いちばん深いところは繋がりました」
ミーリアは床から手を離さなかった。指の下で、岩がまだ温かい。
「……はい。聞こえました」
誰にともなく、そう答えた。栗色の髪に走った白い筋が、光の中で細く揺れた。




