第86話 封印の間
朝霧の向こうから、足音が聞こえた。
整然とした、迷いのない靴音。聖域山脈の岩肌に反響して、行進曲のように谷間に響いてくる。
ミーリアは焚火の前で体を起こした。隣でフェリクスが既に立ち上がり、山の稜線の向こうを見つめている。
「来たぞ。北から、複数人だ」
霧が薄れていく。
最初に見えたのは、銀色の髪だった。
朝日を受けて白く輝く長い髪が靡き、その下に紫の瞳が覗いている。背筋の伸びた佇まい。纏う空気が、辺境の山中にはおよそ似つかわしくないほど気品に満ちていた。
その後ろに、黒髪の青年と数人の随行者が続いている。
ミーリアの胸が震えた。
知っている。あの銀色の髪を、あの紫の瞳を。あの夜、帝都の東回廊で泣いていた自分に声をかけてくれた人だ。
「お久しぶりですわ、ミーリアさん。あの夜の約束……覚えていてくださったかしら」
リーナの声は柔らかく、けれど芯がある。あの夜と変わらない。
ミーリアは駆け寄った。膝の上の毛布が滑り落ちたが、構わなかった。
「リーナさま! はい、覚えています。——あの、泣いていても何も変わらないって」
「ええ。あなたはもう泣いていないのですわね」
リーナが微笑んだ。紫の瞳が、ほんの少しだけ潤んでいるように見えた。
ミーリアは目の奥が熱くなるのを感じたが、堪えた。泣かないと決めたのだ。あの夜に。
* * *
リーナの視線が、焚火の向こうで腕を組む黒髪の少年へ移った。壁のように突っ立ったまま、値踏みするようにこちらを見返している。
「あなたが、もう一方の力の持ち主ですのね。……ずいぶん賑やかな核紋」
リーナの紫の瞳が、すっとカイトの胸のあたりを撫でた。カイトの眉が跳ねる。
「……その目、腹の底まで覗いてきやがる。趣味が悪い」
隣の金髪の少女、ソフィアがカイトの肘を突いた。
「カイト、失礼でしょ」
ミーリアはリーナの傍らに立ち、二人をとりなすように口を開いた。
「リーナさま、この方がカイトさんです。ゆうべ、ここで合流したんです」
昨夜、焚火を挟んで交わした言葉が胸をよぎる。温かい光の奥に渦巻く、暗い何か。あの時カイトは「俺は大地を喰らう側だ」と言った。その意味を、まだ問い詰められてはいない。
「ええ、視えていますわ」
リーナが静かに頷いた。
「幾つもの力が、喰らい合っている。よく正気を保っていられますこと」
「保ってねぇよ。ぎりぎりだ」
カイトは吐き捨てるように言った。その声の底に、僅かな苦さがある。ソフィアが心配そうに彼を見上げた。
フェリクスがミーリアの傍らに立った。銀髪の令嬢と随行者たちへ、静かに視線を送っている。
「……あの帝都の令嬢か。話のとおり、来たか」
ミーリアが頷いた。
「はい。リーナさまが、約束を守ってくださったんです」
リーナが一歩進み出て、随行者へ手を差し出した。黒髪の青年——ルシアンが、丸めた羊皮紙をその手に載せる。
リーナは平らな岩にそれを広げ、四隅を小石で押さえた。褪せた線の山脈の奥に、円がひとつ打たれている。
「ここですわ」
白い指が、円の縁を三度叩いた。
「わたくしが旋律を読みます。ミーリアさんは大地に手を。カイトさんは核から目を離さないでくださいまし」
ソフィアが手を挙げかけて、下ろした。
「あの……わたしは、何をすれば」
「あなたはカイトさんの隣に。核が乱れたら、名前を呼んでさしあげて」
「名前を、呼ぶだけで」
「ええ。それがいちばん効きますのよ」
カイトが岩にもたれ直した。
「要するに三人揃わなきゃダメってことか」
「そういうことですわ。問題は、そこまでの道。この山は人を拒みますの」
「拒む?」
カイトが鼻で笑った。リーナは答えず、列の後ろへ目をやった。
随行者の一人が膝をついていた。口元を押さえた指の隙間から、赤い筋が顎へ垂れている。もう一人が水筒を差し出したが、蓋を回す手が滑って落とした。
「……あの人、鼻から」
ソフィアが小さく声を漏らした。ミーリアが半歩出る。
「手を貸します」
「いけませんわ。あなたまで山に触れさせては、誰も先へ進めません」
水筒の男が膝をついた男の腕を肩に回し、二人で谷へ下りていく。
「帝国は百年、ここで同じ列を引き返させておりますの」
ミーリアは聖域山脈を見上げた。雪を頂く峰々は、朝日の中でも威圧的だった。けれど足元の地面から、微かな振動が伝わってくる。低い音。星脈が歌っている。グリュンハイムの聖樹の前で感じたのと同じ、けれどずっと深い音色。
「わたしなら、入れます」
全員がミーリアを見た。
「この山はわたしを受け入れてくれています。アリーシアさまと同じ力を、認めてくれたんだと思います」
フェリクスが精霊たちに意識を向けた。フィルが翡翠色に明滅しながら山の方角を指し示している。テラが地面から顔を出し、アクアが朝露の中で青く揺れている。
〈道。開く。この人なら〉
「精霊も同意している。ミーリアが先頭に立てば道が開くらしい」
ミーリアは大地に片膝をつき、手のひらを地面に押し当てた。瞳が淡い金色から白銀に変わる。
地面に光の脈が走った。
白銀の筋が指先から放射状に広がり、岩肌を這い上がっていく。人が立ち入れないはずの山肌に、光の道が浮かび上がった。踏み跡のない岩の斜面に、一筋の白い筋が山の奥へ続いている。
フェリクスが剣帯を締め直した。
「先頭は代われないぞ」
「はい。わたしが歩きます」
「行きましょう」
ミーリアが立ち上がった。光の筋は山の奥で細くなり、岩の陰へ消えている。
* * *
道は狭かった。
片側が崖で、もう片側が岩壁。足元の光の脈だけが、ここが通れる場所であることを示していた。
ミーリアが先頭。フェリクスがすぐ後ろ。リーナとルシアン、カイトとソフィアが続く。
歩くたびに山の空気が濃くなる。星脈のエネルギーが肌に触れて、指先が痺れるような感覚。呼吸のたびに光の粒を吸い込んでいるようだった。
「すごい。星脈がこんなに濃い場所、初めてです」
「グリュンハイムの比じゃないですわね」
リーナが岩壁に手をついて、すぐに離した。指を握って、開く。
「壁まで脈打っていますわ」
カイトが鼻を鳴らした。
「体中が熱い。星脈ってのは面倒だな」
「あ、あの、大丈夫ですか? わたしが少し星脈の流れを逸らせますので……」
「いらねぇ。歩ける」
ソフィアがカイトの袖を引いた。小声で何か言い合っているが、ミーリアには聞き取れなかった。
「ミーリアさん、足元の筋はまだ続いていて?」
「はい。ずっと先まで、途切れずに」
三十分ほど歩いただろうか。
道が開けた。
巨大な地下空洞だった。
天井は見えないほど高く、そこから星脈の光が雨のように降り注いでいる。空洞の床には複雑な紋様が刻まれていた。円形の陣。中央に向かって幾何学的な線が走り、交点ごとに古代文字が浮かび上がっている。
大聖女アリーシアの紋様だ。
ミーリアにはわかった。聖樹で受け取った記憶の断片と、同じ力の痕跡だ。
紋様の一点だけ、線が浅くなっていた。石が丸く擦り減り、膝の幅で二つ窪んでいる。窪みの縁には乾いた花の茎が数本、灰になりかけて残っていた。
「ここが……封印の間」
床の紋様に亀裂が走っていた。中央から放射状に、ひび割れが広がっている。亀裂の端から薄紫の瘴気が立ち上り、空洞の空気を歪めていた。
フィルがミーリアの肩に止まり、体を小さく震わせた。
〈でも、ここ。ここで待ってた〉
リーナが紫の瞳を細めた。不思議な光が瞳の奥で輝いている。
「見えますわ。封印の旋律が。劣化した箇所が三つ。南東、北西、中央。百年の歳月で、ここまで傷んでいるのですわね」
カイトが中央の亀裂を見下ろした。瘴気が足元に渦を巻いている。
「ここから星脈が漏れてる。大陸がおかしくなってた原因か」
カイトが靴の先で亀裂の縁を小突いた。渦が乱れて立ち上がる。
「南東と北西は俺が先に潰す。中央は動かせねぇんだろ」
「ええ。中央だけは、三人で同時に」
ミーリアは紋様の縁にしゃがみ込んだ。手のひらを床に当てた。
アリーシアの力の残滓が、指先から流れ込んでくる。百年前の記憶。この場所で一人きり、大地に手を押し当て続けた女性の姿。髪が白く変わっていく背中。震える唇。それでも手を離さなかった指先。
胸が締めつけられた。
「ご先祖さま……ずっとここで、一人で」
フェリクスがミーリアの肩に手を置いた。温かく、重い手のひら。
「……一人じゃない」
紋様の縁で、足音が二つ止まった。右でリーナが膝をつき、擦り減った線に指を添える。左でカイトが片膝を落とし、亀裂の縁へ手をかけた。
「おい。置くぞ。合図しろ」
ミーリアは顔を上げた。天井から降る光が、三つの影を中央へ長く伸ばしている。窪みに残った花の茎が、影の下で灰になって崩れた。
影が重なった先で、亀裂が音を立ててひと筋伸びた。




