第85話 三者集結前夜
聖域山脈の麓の祠に着いた時、黒髪の少年が既にいた。
焚火の跡があった。石柱の根元に荷物が置かれ、剣が立てかけてある。少年は祠の縁に腰を下ろし、空を見上げていた。隣に金色の髪をした少女が座っている。二人とも旅装が汚れていた。
フェリクスが足を止めた。風に顔を向け、目を細めた。
「何だ、この圧は」
「圧?」
「核紋の気配がおかしい。感じたことがない種類だ。もう一人は普通の人間だが、連れの方は」
フェリクスの手が、腰の山刀にかかった。
ミーリアも感じた。地面の下を伝わる振動の中に、異質な脈がある。星脈に似ているが、もっと荒い。温かいのに鋭い。相反する二つの力が混ざり合っている。
あの感覚だ。
大陸同時異変の夜。東の方角から返ってきた共鳴。温かくて怖い力。
「フェリクスさん、大丈夫です。この力、知っています」
「知ってるのか」
「あの夜、星脈共鳴が勝手に発動した時、東から返ってきた力です」
フェリクスの手が山刀から離れた。けれど警戒は解いていない。目が少年を射抜いている。
* * *
少年が立ち上がった。こちらに気づいていた。金髪の少女も立ち上がり、小さく会釈した。
ミーリアは息を呑んだ。
少年の核紋から放たれる気配が、尋常ではなかった。見た目は十六、七歳。体格は普通。けれど核紋の中に渦巻く力が、何重にも重なって混ざり合っている。一つではない。複数の属性が喰らい合うように混在していた。
温かい光がある。その奥に、底知れない何かが蠢いている。
ミーリアは一歩前に出た。
「あの……あなたが、東から共鳴を返してくれた方ですか?」
少年が足を止めた。ミーリアを見た。値踏みするような目だった。
「共鳴? ああ、あの時の。辺境から光が飛んできたやつか」
声は低く、素っ気なかった。
「お前が聖女? 思ったより普通だな」
フェリクスが前に出た。
「口の利き方を覚えろ」
フェリクスの声に殺気が混じった。琥珀色の目が細くなり、山刀の柄に手が伸びた。
「フェリクスさん、待って」
ミーリアがフェリクスの腕を掴んだ。
「この方は敵じゃないです。星脈が教えてくれてます」
フェリクスは動きを止めた。ミーリアの手が腕を握っている。力は弱いが、離す気配がない。
少年は無表情のままフェリクスを見返した。怯えた様子はない。むしろ、フェリクスの殺気を受け流すように立っていた。
「……まあいい。俺はカイト。こっちはソフィア」
金髪の少女が半歩前に出た。
「ソフィアです。よろしくお願いします」
丁寧な声だった。カイトとは対照的に、穏やかな目をしている。
「ミーリアです。こちらはフェリクスさん、わたしの、えっと、大事な人です」
フェリクスが咳払いした。カイトが僅かに眉を上げた。
「大事な人、ね」
「何か文句あるか」
「別に。仲がいいのはいいことだ」
ソフィアが小さく笑った。カイトの顔を見上げて、何か言いたそうにしている。
* * *
祠の近くに焚火を囲んだ。
ミーリアが薬草茶を四人分淹れた。椀をカイトに差し出すと、カイトは受け取って一口飲んだ。
「悪くない」
「ありがとうございます。グリュンハイムの薬草で作った疲労回復のお茶です。旅でお疲れでしょうから」
「……気が利くな」
フェリクスが横から口を挟んだ。「いつもそうだ」
ソフィアも椀を受け取り、両手で包んで啜った。旅の疲れが顔に出ている。頬がこけていた。
「ソフィアさん、だいぶお疲れですね。もし良ければ、肩こりに効く薬草もありますけど」
「え、いいんですか? ありがとうございます」
「ソフィア。もらえるものはもらっとけ」
「カイトさんが言うと台無しです」
ミーリアは笑った。ソフィアが焚火の脇の鍋を取り、カイトの椀に注ぎ足した。カイトは椀を持ち上げたまま、礼も言わずに受けた。
薬草茶を飲みながら、ミーリアは焚火の向こうに座るカイトの核紋をそっと見つめた。見た目には何も見えない。けれど星脈共鳴の感覚を通すと、カイトの体の中で複数の力が渦を巻いているのがわかる。
「カイトさん。あなたの核紋、すごく温かい光があります。ここ、胸の奥に」
ミーリアは自分の胸を指した。
「でも、その周りに、怖い何かも混じっています。何重にも重なっていて。一つじゃない」
カイトの目が鋭くなった。焚火の光が瞳の奥に映り、一瞬だけ別の色が揺れたように見えた。
「……見えるのか。中身が」
「見えるというか、感じます。星脈を通して。あなたの核紋はとても複雑で、わたしが今まで感じた誰とも違います」
カイトは焚火の炎を見つめた。しばらく黙っていた。薬草茶の椀を膝の上に置き、指先で縁をなぞった。
「俺の核紋は、普通じゃない。それだけ言っとく」
「はい。無理にお聞きしません」
ソフィアがミーリアに向かって小さく頭を下げた。何かを伝えたそうな目をしていたが、カイトの前では言葉を飲み込んだ。
* * *
夜が深まった。
ソフィアは先に眠りについた。旅の疲れが溜まっていたのだろう。毛布にくるまり、焚火の傍で静かな寝息を立てている。ミーリアが自分の外套をもう一枚かけてあげた。
フェリクスが見張りを買って出て、祠の柱に背を預けている。
ミーリアとカイトが、焚火を挟んで残った。
「カイトさんは、どうしてここに?」
「星脈に導かれた、とでも言えばいいか。あの同時異変の後から、この山脈が呼んでるのがわかった」
「わたしもです。星脈が、ここに来いって言ってるみたいで」
「お前の力はわかりやすいな。大地を癒す力。俺のとは真逆だ」
「真逆?」
カイトは答えなかった。焚火に枝を放り込んだ。火の粉が舞い上がった。赤い粒が夜空に溶けて消えた。
「聞いていいか。お前は何のためにここに来た」
ミーリアは膝の上の包みを開いた。乾いた薬草の束と、油紙に包んだ小瓶が並んでいる。
「これを上まで運びます。それと、痩せた土に手を当てるのが、わたしの役目みたいで」
「大地を癒す、か。俺は大地を喰らう側だ。面白い組み合わせだな」
ミーリアは首を傾げた。カイトの言葉の意味がわからなかった。訊こうとして口を開いたが、カイトは椀の底に残った茶を焚火に捨てた。湿った音がして、灰がわずかに沈んだ。
「もう一人、来るはずです」
「もう一人?」
「リーナさまという方です。銀色の髪の、わたしが追放された夜に声をかけてくれた方です。あの方の力も、封印修復に必要だと聞いています」
「三人揃わないと意味がない、ってことか」
「はい。リーナさまが来れば、三人揃います」
カイトが空を見上げた。星が瞬いている。聖域山脈の稜線の向こうに、天の川が横たわっていた。
「三人集まって何をする。封印を直す。その後は?」
「その後は、帰ります。グリュンハイムに。薬草園があるんです。温泉もあって、精霊がいて。のんびり暮らしたいんです」
カイトが僅かに口元を緩めた。
「のんびり、ね。お前にはそれが似合う」
「カイトさんは、その後どうするんですか」
「さあな。考えてない」
焚火の音だけが響いた。木が弾ける小さな音が、夜の山に吸い込まれていく。
フェリクスが見張りの位置から低い声を出した。
「精霊が言っている。北の方角から、もう近い」
ミーリアは立ち上がり、北の方角に目を向けた。暗い山並みの向こうに、何も見えない。けれど、星脈の振動が一つ増えている。遠くて微かだが、聞き覚えがある旋律だった。あの夜、回廊で声をかけてくれた人の気配。
「リーナさま……」
フィルがミーリアの肩に止まった。翡翠色の光が、北を指して明滅した。
〈来る。あの人。もうすぐ〉
ミーリアは毛布をもう一組ほどいて、焚火の風下に敷いた。頭の側に荷を寄せ、鍋に水を足して火の端に置いた。
「朝までに着いたら、湯だけでも出せます」
カイトが立ち上がった。焚火の残り火を見下ろし、短く呟いた。
「なら待つか。急いでも仕方ない」
「フェリクスさん、見張りは夜半で代わってください。朝の分は、わたしがやります」
柱の方から、低い返事だけが戻ってきた。
聖域山脈の奥から、低い星脈の振動が途切れることなく響いていた。その底に、蹄の音が一つ混じっている。まだ遠い。




