第84話 偽聖女の終幕
クラリッサは夜明け前に目を覚ました。
宿の窓から外を見た。まだ暗い。温泉の湯煙が月明かりに白く浮かんでいる。静かだった。帝都の宮殿で目覚めた朝とは何もかもが違う。侍女もいない。絹の寝具もない。石壁の小さな部屋に、木の寝台と毛布が一枚。
泣いた後、ロッテの薬草茶を飲んで、初めてこの村でまともに眠れた。枕元に置いた「聖光の器」の残骸には、もう手を伸ばさなかった。
* * *
薬草園に出た。
ロッテが先に来ていた。腕を組んで、昨日枯れた一角を見ている。
「おはようございますわ」
「早いね。やる気だけはあるのかい」
「やる気だけですけれど」
ロッテが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
枯れた三株の薬草は変わっていなかった。茶色く萎れた茎。変色した土壌。クラリッサが昨日、偽物の器で台無しにした場所。
けれど、昨日の夕方にクラリッサが素手で触れた茎の先端だけ、微かに色が戻っていた。緑とは言えない。薄い黄緑。指でつまむと、茎はまだ折れずにしなった。
「あんた、昨日の夕方に何をした」
「ただ触れただけです。光属性の力を、少しだけ」
「少しだけで、ここまで戻したのかい」
ロッテが枯れた茎に触れた。指先で感触を確かめ、爪で表面を軽く引っ掻いた。内側にまだ水分が残っている。
「ミーリアちゃんの星脈共鳴とは違う。あの子の力は大地そのものを蘇らせる。あんたの光は、植物の成長を促す力だ。直接触れた部分だけ。小さいけれど、確かに効いてる」
「小さい力ですわ」
「小さくていいんだよ。畑仕事は毎日の積み重ねだ。一発で全部蘇らせる必要はない」
クラリッサは枯れた薬草の前にしゃがみ込んだ。
素手で茎に触れた。昨日と同じように、ほんの少しだけ流し込んだ。
指先に金色の光が灯った。茎が微かに震えた。
「ゆっくりでいい。焦るな」
ロッテの声が後ろから聞こえた。
クラリッサは目を閉じた。帝都では、器が膨らませたものを自分の光として掲げていた。大広間の天井まで届く光。届くだけの光。
いま指先にあるのは、茎一本ぶんしかない。
光が茎に沁み込んだ。ゆっくりと、一株目の葉の先が、色を取り戻し始めた。薄い黄緑が、少しだけ濃くなった。
* * *
日が高くなってから、クラリッサは集会所の椅子に座り、ロッテが淹れた薬草茶を飲んでいた。午前中ずっと畑に出ていた手が土で汚れている。爪の間に黒い土が残ったまま、湯呑みを握っていた。
「三株のうち、一株は持ち直しそうだね。残り二株は根がやられてるから、抜いて植え直した方が早い」
「わたくしが枯らした分は、わたくしの手で植え直しますわ」
「威勢がいいね。土いじりの経験はあるのかい」
「ありませんわ」
ロッテが額を叩いた。
「まあいい。教えてやるよ。ミーリアちゃんも最初は何も知らなかったんだ。あんたも一からだ」
クラリッサは薬草茶を一口飲み、湯呑みを膝の上に置いた。苦い味が舌に残った。昨日と同じ調合だった。ミーリアが村を出る前に作り置きしていた分だ。
「ロッテさん」
「なんだい」
「謝りたいんです。ミーリアに」
ロッテの手が止まった。
「帝都で聖光の儀を行った時、わたくしがあの娘を追放しました。エーデルシュタイン家とヴァレンシュタイン家の思惑に乗って。いいえ、乗せられたのは言い訳ですわね。わたくし自身が、あの娘の力を恐れていた」
「恐れていた?」
「光属性B級の小娘のはずだった。それなのに、精霊が懐き、大地が応え、わたくしの聖光の器では太刀打ちできない何かを持っていた。わたくしは……あの娘が本物だと気づいていました。気づいた上で、排除した」
沈黙が落ちた。
集会所の窓から午後の光が差し込んでいた。埃が舞っている。差し込む光が、土のついた指先を白く照らしていた。
ロッテは腕を組んだまま、何も言わなかった。
「ここに来てから、あの娘が育てた畑を見て、村の人たちの顔を見て、わたくしが壊したものの大きさがわかりました。あの娘は壊れなかった。けれど壊そうとしたのはわたくしです」
「で、どうしたいんだい」
「謝りたい。ミーリアに、あの娘に。それだけです」
ロッテは薬草茶をすすった。長い間、何も言わなかった。窓の外で鶏が鳴いた。
「あの子は帰ってくるよ。帰ってきたら、自分の口で言いな」
「はい」
「ただ、言っとくけどね。謝って許されるかどうかは、あの子が決めることだ。あんたが決めることじゃない」
「わかっています」
「わかってるなら、それまでにできることをやりな。畑の修復。申請書の仕上げ。あんたにできることは、まだある」
* * *
茶を飲み終えて、クラリッサは薬草園に戻った。
枯れた二株を丁寧に抜き、ロッテに教わりながら新しい苗を植えた。土の掘り方。苗の向き。水の量。全てが初めてだった。爪の間に土が入り、膝が泥で汚れた。
ロッテが横で見ていた。手は出さない。口だけ出す。
「穴が浅い。もう拳一つ分、深く」
「こうですか」
「もう少し。根が伸びる余裕を残してやりな」
クラリッサは素手で土を掘った。柔らかい土の感触が指の間を通り抜けた。冷たくて、湿っていて、生きている匂いがした。思わず鼻から深く息を吸い込んだ。
植え終わった苗に、手を当てた。
ほんの少しだけ流した。金色の光が苗の茎に沁み込む。葉が微かに揺れた。
「……光には光の、使い道がある」
クラリッサは立ち上がり、手の土を払った。
「ロッテさん。もう一つ、お聞きしたいことが」
「なんだい」
「わたくしの光属性で、他の畑の手入れも手伝えますでしょうか」
ロッテが目を丸くした。
「手伝いたいってのかい。あんたが」
「ミーリアの星脈共鳴には及びません。けれど、一株ずつ触れて光を注げば、成長を少しだけ促せるかもしれません。時間はかかりますけれど」
ロッテは黙ってクラリッサの手を見た。爪の間に土が残っている。
「いいよ。明日の朝から、薬草園の東側を任せる」
「承知いたしましたわ」
* * *
日が落ちてから、クラリッサは宿の窓辺に立っていた。
聖域山脈の方角を眺めている。稜線は暗い山並みに溶けて見えない。星だけが、山の上に散らばっていた。
ふと、光が走った。
山脈の方角から、一筋の白銀の光が天を衝いた。ほんの一瞬。瞬きのように現れて、消えた。
星脈の光。
あの白銀は、この村の畑に残っている余韻と同じ色をしていた。
クラリッサは両手を胸の前で組んだ。
「ミーリアが、動いたのですわね」
目を閉じた。
帝都で聖女を演じていた頃の、形だけの祈りとは違う。手が震えていた。何に祈っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、あの娘が無事であるように。
帰ってきたら、自分の口で伝える。
ごめんなさい、と。
窓の外で、グリュンハイムの温泉が白い湯気を上げていた。湯面に、さっき山の上で見たのと同じ色が、切れぎれに浮いている。




