第83話 クラリッサの最後の抵抗
ミーリアが出発して、五日が過ぎた。
グリュンハイムの朝は変わらなかった。鶏が鳴き、温泉の湯煙が谷間を白く染め、薬草園では朝露が葉の先に光っている。
クラリッサは宿の窓辺に座っていた。
膝の上に「聖光の器」の残骸がある。実家の技術者が、自分の光を人前に出せる大きさまで膨らませるために作ったものだ。帝都を追われた時に持ち出した唯一の品だった。
金属の表面は罅割れ、宝石の嵌め込みは割れている。もう聖光を放つことはできない。
けれどクラリッサは、それを捨てられなかった。
「これがなければ、わたくしには何も」
呟きが、誰もいない部屋に消えた。
窓の外では村人たちが朝の仕事を始めている。薬草畑に向かう者、温泉の見回りに出る者。ミーリアがいない日常に、少しずつ慣れ始めている。窓枠に爪を立てた。外の声は、どれも自分を呼んでいなかった。
* * *
昼前。
クラリッサは薬草園の端に立っていた。
ミーリアが出発前に込めた星脈の余韻が、まだ土壌に残っている。白い筋が地中に脈打ち、薬草の根を温めている。ロッテが毎朝確認し、まだ十分に保たれていると言っていた。
クラリッサは、その光を見ていた。
土の下で、白い筋がゆっくり脈を打っていた。追い出したはずの娘の手が、まだこの畑を温めている。
「わたくしにも、できるはずですわ」
右手に「聖光の器」の残骸を握った。
壊れていても、握ると芯の一部がまだ脈を打つ。ここへ自分の光を流し込んで、あの娘が土にしていたことを真似れば、近いものにはなるかもしれない。
できるはずだ。
わたくしはエーデルシュタイン公爵家の出。帝国聖女の称号を二年間背負った女。田舎娘にできて、わたくしにできないはずがない。
クラリッサは目を閉じた。胸の奥のものを掻き集めて、掌へ寄せていく。金色の光が手のひらに灯る。
「聖光の器」の残骸が、微かに反応した。
力を注ぎ込んだ。手のひらを地面に向け、光を放った。
光が土に浸透しなかった。
弾かれた。
異質な力の干渉を受け、余韻の脈が乱れた。白い筋が一瞬赤く変色し、地中で何かが軋んだ。
「なっ」
薬草が萎れ始めた。
クラリッサの足元から半径二メートルほど、薬草の葉が黄ばみ、茎がしなだれた。星脈の余韻が乱れ、土壌の生命力が一気に吸い出されている。
「止まりなさい!」
クラリッサが力を止めようとしたが、残骸が暴走していた。罅割れた金属から黒い蒸気が立ち昇り、土の色が変わっていく。黒ずんだ土壌が広がり、薬草の根が地中で干上がっていくのがわかった。
足音が響いた。
「何やってんだい!」
ロッテが駆けてきた。鍬を握ったまま、畑の惨状を見た。枯れかけた薬草。変色した土壌。クラリッサの手元で燻る黒い蒸気。
ロッテは無言で鍬の柄を振り下ろし、「聖光の器」の残骸を弾き飛ばした。金属片が石畳の上を転がり、黒い蒸気が途切れた。
ロッテの顔が険しくなった。
「ミーリアちゃんが丹精込めた畑を。あんた、何をした」
クラリッサの手から力が抜けた。膝の上に置いた指先が震えている。
「わたくしは。わたくしにも、できると思って」
「できてないだろう! 見なよ、この有様を!」
ロッテが枯れた薬草を指した。三株。根元から茶色に変わっている。回復するかどうかもわからない。一番手前の株は葉が全て落ち、茎だけが黒く突っ立っていた。
クラリッサの膝が折れた。
地面に両手をついた。爪の間に土が入った。エーデルシュタイン家の令嬢が、畑の泥に額をつけるように崩れている。
「わたくしには、何もないのですわね」
声が掠れていた。
「力も。居場所も。称号も失って。あの偽物の器にすがるしかなくて。それすら」
言葉が続かなかった。
指が、土を掻いた。
ロッテの表情が変わった。怒りが引き、別の色が浮かんだ。
黙って薬草園の小屋に行き、戻ってきた。手に湯呑みが二つ。薬草茶が注がれていた。
「飲みな」
「……え?」
「泣きたい時は泣きな。それから考えればいい」
クラリッサは地面に座り込んだまま、湯呑みを受け取った。手が震えていた。陶器の縁に唇をつけたが、最初はうまく飲めなかった。
一口含んだ。苦い。ミーリアの調合だ。帝都の茶とは全く違う。粗野で、素朴で、体の芯に届く味だった。
涙が落ちた。
音もなく、頬を伝って土の上に染みた。一滴、二滴。止められなかった。湯呑みを持つ手が揺れ、茶が少しこぼれた。
「わたくしは。ミーリアに、ひどいことを」
「知ってるよ」
「追放したのはわたくしですわ。偽物の力で、本物を」
「それも知ってる」
ロッテは腕を組んだまま、クラリッサの隣に座った。地面の上に、どっかりと。
「だから何だい。過去は消えない。消えないなら、今から何をするかだろう」
クラリッサは湯呑みを両手で包んだ。温かさが手のひらに染みた。涙は止まらなかったが、嗚咽は堪えた。
ロッテは何も言わず、隣にいた。薬草茶を啜り、時折畑を見渡し、黙ったまま座っていた。
* * *
夕方、ロッテがクラリッサを連れて枯れた畑の前に戻った。
三株の薬草は完全に枯れていた。根元の土壌も変色したまま。
「あんたの光属性A級は、本物だろう」
「……はい。聖光の器が偽物だっただけで、わたくしの核紋は光属性A級です」
「偽物の器を使わずに、本物の力で。この畑に手を伸ばしてみな」
クラリッサは顔を上げた。
「でも、先ほどは」
「先ほどはあの壊れた魔導具を使っただろう。あんたの力じゃなかった。今度は、あんた自身の力だけでやってみな」
クラリッサは枯れた薬草の前にしゃがみ込んだ。
「聖光の器」の残骸は石畳の上に転がったまま。手を伸ばさなかった。代わりに素手で、枯れた茎に触れた。
器を通さない光は、こんなに小さい。
小さいが、これは借りたものではない。称号を支えるために膨らませていたのは見せかけのほうで、掌のこれは、生まれたときから自分のなかにあった。
指先に、淡い金色の光が灯った。
枯れた薬草が、微かに反応した。茎の先端で、細胞が一つ二つ、呼吸を取り戻したように揺れた。
枯死しかけた植物の中で、ほんの僅かに命が息を吹き返した。
クラリッサの指が震えた。泥だらけの手から、嘘のない光が流れている。




