第82話 聖域山脈の入口
山脈は、近づくほど大きくなった。
当たり前のことだが、距離が縮まるにつれて感じる圧力は想像を超えていた。岩壁が空を遮り、雪を被った頂が雲を突き刺している。谷から吹き上げる風が冷たく、ミーリアの栗色の髪を乱した。
「フェリクスさん、空気が変わりました」
「ああ。星脈の密度が上がってる。普通の人間なら、ここで引き返す」
「フェリクスさんは、引き返さないんですか」
「山守だ。引き返す先がない」
フェリクスの言う通りだった。足の裏から伝わる振動が、グリュンハイム周辺とはまるで違う。大地が呼吸しているような律動。重く、深く、途絶えることなく続いている。
テラが地面から顔を出した。いつもなら眠そうにしている土の精霊が、丸い目を大きく見開いている。
〈大きい。ここ、すごい〉
「テラさんも感じてるんですね」
〈下。ずっと下まで、動いてる〉
アクアが水筒の蓋を押し開けて飛び出した。空気中の水分に溶け込むように姿を変え、周囲を漂い始めた。水の精霊も、この場所の力を感じ取っている。
山道が開けた。
* * *
眼前に、広場が現れた。
聖域山脈の麓。岩を切り出したような平坦な岩場が、山肌の裾に広がっている。その先——山道を登り切った高みに、古い祠が見えた。石の柱が四本、等間隔に立っているのが、遠目にもわかる。
苔むした表面に、かすれた紋様が走っている。百年以上を経た石だ。
祠の向こうに、聖域山脈の入口が口を開いていた。二つの巨岩が門のように左右にそびえ、その間に暗い道が続いている。
「あれが……」
「聖域山脈の麓の祠だ。精霊の番人の記録に残っている。大聖女アリーシアが封印を施す前に、最後に祈った場所だと」
フェリクスの声は低かった。山守の家系に代々伝わる知識。祖母から聞いた話が、今この場所と繋がっている。
「石柱、四本とも立ってます。百年以上経ってるのに、一本も倒れてない」
ミーリアは足元の岩肌に手を伸ばした。この地の大地に、じかに触れるように。
触れた瞬間、指先が震えた。
星脈が流れている。石の中を、液体のように。温かい脈動が指から腕へ、腕から胸へ伝わった。核紋が応答した。体の芯で何かが共鳴し始めた。
「あ」
瞳が変わった。
金色が薄れ、白銀の光が虹彩を満たした。ミーリアは目を見開いたまま、足元の岩肌を見つめた。岩の紋様が光り始めている。かすれて読めなかった線が、白銀の脈として浮かび上がっていく。
足元の地面に、光の筋が走った。
ミーリアを中心に、放射状の脈が広がっていく。岩場を駆け上がり、高みの祠の四本の石柱の間を結び、山脈の入口へと続いていく。石柱が根元から順に白く灯った。四本目が灯ると、門の巨岩の裾にまで光が届いた。
「聖域山脈が……わたしを、受け入れてる」
声が震えた。
フェリクスが一歩近づいた。
「拒絶されなかったな」
自分の掌を岩に押し当て、すぐに離す。指の跡に、光は走らなかった。
「俺のときは、こうはならん」
「アリーシアさまと、同じ力を。認めてくれたんです」
ミーリアの頬に涙が伝った。
白銀の脈は岩場を越え、石柱を抜け、暗い門の奥へ消えていた。ミーリアはその先を目で追い、それから自分の掌を見た。追放された聖女候補の小娘の掌が、白く照り返している。
「鑑定のとき、笑われたんです。光属性のB級で、聖女候補は荷が重いだろうって」
フェリクスは石柱の一本に手を当て、指の腹で表面をなぞっただけだった。ミーリアは頬の涙を拭って、光る岩肌にもう一度手をついた。
フィルがミーリアの周囲を飛び回り、翡翠色の光を撒き散らした。
〈嬉しい。道、開いた〉
テラも地面の下から飛び出して、ミーリアの足元でくるくる回った。アクアが空中から降りてきて、ミーリアの手の甲で青い光を明滅させた。
〈ここの土、やわらかい。掘れる〉
「掘っちゃだめですよ。聖域なんですから」
* * *
フェリクスが山脈の入口のほうへ数歩、歩み出た。高みにそびえる巨岩の門を見上げ、足を止め、目を閉じた。
風が変わった。
山脈の奥から流れ出る風に、精霊の気配が濃い。グリュンハイムの精霊たちとは異質の、古く、重い存在感。聖域山脈に棲む精霊たちだ。
「フェリクスさん?」
「待て。精霊が応えている」
フェリクスの額に汗が浮いた。精霊との意思疎通は家系の力だが、聖域山脈の精霊は格が違う。フィルやテラのように気軽に言葉を交わせる相手ではない。
けれど、今は応答がある。
風が渦を巻いた。巨岩の表面に苔が揺れ、岩肌の奥から微かな光が漏れた。光は白銀ではなく、古い金色。百年前の力の残滓だった。
フェリクスが目を開いた。顔色が変わっている。
「聞こえた」
「なんて言ってるんですか」
「『来た。待ってた。あの子の、後を継ぐ者』」
ミーリアは息を呑んだ。
「あの子、というのは」
「百年前の大聖女だろう。アリーシア。この山脈の精霊は、ずっと待っていた。封印を継ぐ者が来るのを」
フェリクスが振り返った。琥珀色の目が、真っ直ぐミーリアを見ている。普段は感情を読ませない瞳に、微かな揺れがあった。
「お前だ。精霊が待っていたのは、お前だ」
「わたしで、いいんでしょうか」
「精霊は嘘をつかん」
ミーリアは胸に手を当てた。核紋の振動が強くなっている。山脈の星脈と、体内の星脈が呼応し合っている。指先まで痺れて、爪の先が熱かった。膝が小刻みに揺れて、ミーリアは踏みとどまるのに息を止めた。
フィルがミーリアの肩に止まった。翡翠色の光が、いつもより強く輝いていた。
〈ここ。この人の場所〉
「でも、わたし一人では、足りない気がします」
ミーリアは東の方角に目を向けた。
あの時の感覚が蘇る。大陸同時異変の夜。体の中を貫いた共鳴。東の方角から返ってきた温かくて怖い力。
「あの力の主が、もうすぐ来る気がするんです」
フェリクスが頷いた。
「精霊も言っている。ここで待て、と。他の誰かが来るまで」
「誰かが来るまで……」
* * *
祠を見上げる麓に、野営地を作った。
聖域山脈の麓は、不思議と暖かかった。地熱が噴き出す岩の隙間があり、そこに湯気が立ち上っている。小さな温泉のようだ。ミーリアが手を浸すと、グリュンハイムの源泉と同じ温もりがあった。
「ここの湯も星脈の力を帯びています。聖域山脈の星脈が、こんなところにまで」
「聖域と呼ばれる所以だろう。山全体が星脈の塊だ」
ミーリアは湯に手を浸したまま、しばらく動かなかった。手のひらから星脈の振動が伝わってくる。グリュンハイムの源泉よりずっと深い。大陸の骨格を流れる星脈の本流に触れている感覚。
「すごい。源泉の十倍は濃い星脈です。ここで薬草を育てたら、とんでもない効能の薬ができそう」
「薬草のことしか考えないのか」
「えっと、職業病です。たぶん」
フェリクスが鼻を鳴らした。口元が僅かに緩んでいた。
火を起こし、薬草茶を淹れた。
「これ、飲んでください。冷えに効く配合にしました」
「……いつ摘んだ」
「登りながらです。岩陰に、いいのが生えてて」
「よく気づくな」
二人で大岩に背を預け、星空を見上げた。
星が近い。標高が高いせいか、一つ一つの星が大きく輝いて見えた。天の川が帯のように空を横切り、その光が岩肌を淡く照らしている。
「フェリクスさん」
「ん」
「わたし、ここに来られてよかった。追放された時は、もう何もかも終わりだと思ったのに」
「終わってない。何も終わってなかった」
「はい。ここから始まるんですよね」
フェリクスは答えなかった。代わりに、ミーリアの肩にかけていた外套を直した。寒くないように。その手が少しだけ、肩の上に留まった。
フィルがミーリアの膝の上に降りて、翡翠色の光を弱く明滅させた。眠いのだろう。精霊も疲れるのだ。テラは地中に潜って休んでおり、アクアは岩の隙間の湯の中で静かに光っている。
「おやすみなさい、フィルさん」
〈おやすみ。明日。がんばる〉
山脈の奥から、低い星脈の振動が聞こえ続けていた。
ミーリアは外套の襟を引き寄せ、東の稜線に目をやった。麓の闇のどこかで、小さな灯りが一つ、ゆっくりと動いていた。




