第81話 山道の旅路
霧が、足首まで這っていた。
グリュンハイムを発って三日目の朝。山道は昨夜の雨で泥濘み、一歩ごとに靴底が滑る。
「フェリクスさん、この先の道、大丈夫でしょうか」
「……問題ない。フィルが先に見てきた」
フェリクスは振り返らず、短く答えた。背に負った荷物が揺れるたびに、腰の山刀が鳴る。
フィルが翡翠色の光を引きながら戻ってきた。ミーリアの肩に止まり、小さく羽ばたいた。
〈道、ある。水、多い〉
「水が多い……川が増水してるのかもしれません」
フェリクスが足を止めた。風に鼻を向け、目を細める。
「雨は上がってる。だが昨夜の分がまだ流れきっていない。渡河地点を変える」
ミーリアは頷いた。フェリクスの判断に異を唱えたことは一度もない。山に関しては、この人が全てだ。
* * *
迂回路は獣道だった。
枝が顔にかかり、根が足を引っかける。ミーリアは何度も躓きそうになりながら、フェリクスの背中を追った。テラが地面の下からゆっくり浮かび上がり、足元の危険な箇所を先回りして知らせてくれる。
〈石、動く。気をつけて〉
「ありがとう、テラさん」
ミーリアが礼を言うと、テラは満足そうに回転して地面に潜った。
アクアは水筒の中にいた。時折蓋の隙間から顔を出し、周囲の水場を確認している。水の精霊は山に入ってからずっと、飲み水の安全を守ってくれていた。
「精霊の総動員だな」
フェリクスが呟いた。
「みんな、助けてくれるんです。ありがたいですよね」
「お前だから付いてくる。普通の人間になら、ここまでやらない」
ミーリアは首を傾げた。フェリクスは前を向いたまま、もう何も言わなかった。
* * *
昼過ぎ、問題が起きた。
谷を跨ぐ木橋が落ちていた。
橋脚ごと崩れ、木材が谷底の流れに散らばっている。星脈異常の揺れで地盤が緩んだのだろう。崩落した断面が生々しく白い木肌を晒していた。
「迂回は……半日以上のロスだ」
フェリクスが谷の幅を見極めた。五メートルほど。飛び越えるには広すぎる。
「直せるかもしれません」
ミーリアが谷の縁にしゃがみ込んだ。手袋を外し、地面に手を当てた。
「橋脚の土台が生きています。根が……まだ繋がっている」
フェリクスが横に立った。「やるのか」
「小さい範囲です。橋脚の根元だけ。星脈で、地盤を固め直して、木の根で橋を組み直せば——」
瞳が白銀に変わった。
指先から光の脈が地面に沈み、谷の断面に沿って走った。崩れた地盤の中で、生きている木の根を見つけ、そこに星脈のエネルギーを注ぐ。根が太くなる。枝が伸びる。地中で絡み合い、谷の対岸へと手を伸ばしていく。
五分ほどかかった。
根と枝で編まれた天然の橋が、谷を渡した。頑丈ではないが、二人が通るには十分だった。
「……できました」
ミーリアは手を離し、額の汗を拭った。軽い頭痛があったが、ヒカリグサの薬のおかげで以前ほど辛くない。
フェリクスが橋に足を置き、体重をかけて確認した。揺れるが、折れない。
「上出来だ」
先にフェリクスが渡り、対岸からミーリアに手を差し出した。
「足元だけ見ろ。下を見るな」
ミーリアはその手を取り、一歩ずつ橋を渡った。根の表面が湿って滑るが、フェリクスの手が離れなかった。
対岸に着いた。
フェリクスの手がまだミーリアの手を握っていた。二人とも気づいて、同時に離した。
「あ、ありがとうございます」
「……ああ」
フィルが二人の頭上を飛び回り、〈近い。近い〉と囃した。
「フィルさん、そういうのは……」
「行くぞ。日が暮れる前に尾根を越えたい」
フェリクスは歩き出した。耳の先が赤かった。
* * *
日が山の向こうに沈み、空が紫から藍に変わっていく。
尾根の窪地に野営地を作った。フェリクスが枯れ枝を集め、風属性の力で火を起こした。ミーリアは鍋に水を入れ、干し肉と薬草を放り込んだ。
「この薬草、疲労回復に効くんです。山歩きの後に飲むと筋肉のこわばりがほぐれます」
「前からそうだったが、お前の薬草茶は効く」
「えっと、それは……ロッテおばさんの教え方が良かったからです」
フェリクスは焚火の炎を見つめていた。木が弾ける音が、夜の山に響いた。
しばらく無言が続いた。けれど気まずさはなかった。二人の間には精霊たちがいて、フィルが暖を取るように火の傍で翡翠色に輝き、テラが地面の下でゆっくり回転している。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「グリュンハイムを出てから、ずっと聞きたかったことがあるんです」
フェリクスが顔を上げた。
「何故、わたしについてきてくれたんですか。山守の仕事があるのに」
焚火が爆ぜた。赤い火の粉が夜空に舞い上がった。
「……山守は山を守る仕事だ」
「はい」
「お前がいなかったら——俺は一生、山の中で一人だった」
ミーリアの手が膝の上で止まった。
「精霊と話して、山の木を見て、獣の道を辿って。それだけで終わる一生だった。悪くはない。けど——」
フェリクスは火を見つめたまま続けた。
「お前が来て、山が変わった。土が笑うようになった。精霊が嬉しそうになった。俺も——」
言葉が途切れた。
フェリクスは右手で髪を掻いた。続きが出てこないのだろう。
ミーリアの目が潤んだ。
「わたしも。フェリクスさんがいなかったら、帝都で泣いたまま終わってました」
「……泣くな」
「泣いてません。泣いてないです」
声が震えていた。ミーリアは鼻をすすり、笑った。焚火に照らされた顔が赤いのは、炎のせいだけではなかった。
フィルが二人の間を飛んで、〈幸せ〉と光った。
フェリクスが薬草茶を注いだ椀をミーリアに差し出した。
「飲め。冷める」
「はい。ありがとうございます」
茶を受け取る時、指先が触れた。今度は、二人とも離さなかった。
* * *
翌朝、目を覚ましたミーリアは空を見上げた。
雲が切れていた。夜明けの光が山々を照らし、霧の向こうに何かが見えた。
巨大な影。
空を覆うほどの稜線が、北の方角にそびえていた。山脈の壁だ。岩肌に雪が張りつき、頂きは雲の中に消えている。遥か遠くに見えるのに、その圧迫感は息が詰まるほどだった。
聖域山脈——アウラ・クレスタ。
フェリクスが横に立った。
「……でかいな」
「はい……」
フィルがミーリアの肩から飛び立ち、山脈の方角に向かって翡翠色の光を明滅させた。震えている。
〈怖い。大きい。でも——呼んでる〉
ミーリアは胸に手を当てた。核紋が、微かに震えていた。山脈の奥から、低い振動が伝わってくる。星脈の鼓動。大地の脈拍。
呼ばれている。
誰に——とは、もうわかっていた。




