第80話 グリュンハイムの自立
ミーリアが出発した翌日の朝。
グリュンハイムは静かだった。
いつもなら薬草園の方角からミーリアの声が聞こえてくる。「おはようございます、ロッテおばさん」。あの柔らかい声が谷間に響くのが、村の朝の始まりだった。
今日はその声がない。
ロッテは夜明け前に薬草園に出た。畑の隅々を見て回り、土の状態を確認した。ミーリアが残した星脈の余韻が、土壌に白い筋のように残っている。触ると微かに温かい。
「しっかりしてるね、あんたの畑は」
独り言を呟いて、鍬を握った。
* * *
集会所に村の主だった者が集まったのは、朝食の後だった。
ハンス村長が正面に立った。白い髭を撫で、全員の顔を見渡した。
「ミーリアさんが帰るまで、この村は自分たちの力で立っていく。今日はそのための話し合いだ」
十二人の村人が頷いた。
「まず、独立承認の準備について話す」
村長が机に書類の束を広げた。一番上の紙に帝都の紋が刷られ、下の余白に署名欄が三つ並んでいる。
「村長の印、代表者二名の印。残りの一枠は、受け取った帝都の使者が押す」
村長が三つ目の枠を指で叩いた。
「問題はこの申請書だ。帝都の官僚機構に通すための書式が複雑で、辺境の人間には慣れない手続きが多い」
沈黙が落ちた。村人たちは顔を見合わせた。薬草畑や温泉の管理はできる。けれど帝都の書類仕事となると、誰も経験がなかった。
「あの……わたくしが、お手伝いできるかもしれません」
声がした。集会所の入口に、クラリッサが立っていた。
ロッテが貸した作業着を着て、髪を後ろで束ねている。目の下の隈はまだ残っているが、声には昨日までの虚ろさがなかった。
村人たちの視線が集まった。冷たい目も、警戒する目もあった。この女が何をしたかは、行商人の噂で村中に広まっている。
クラリッサは視線を受け止め、頭を下げた。
「わたくしはエーデルシュタイン公爵家の出です。帝都の政治制度、官僚機構の手続きには通じています。申請書の書式も、審査のポイントも——経験があります」
村長が腕を組んだ。
「あなたの知識は、確かに助かる。だが——」
「信じていただけないのは当然ですわ」
クラリッサの声は落ち着いていた。仮面ではない。泣いた後の、素の声だった。
「ミーリアに許されたわけではありません。ただ——ここにいる間に、わたくしにできることをしたいのです。それ以上のことは求めません」
沈黙。
ロッテが口を開いた。
「ミーリアちゃんが受け入れた客人だ。あたしらが追い出す権利はない。——帝都の書類が得意なら、やってもらおうじゃないか」
村長が頷いた。
「では、クラリッサ殿。申請書の草案作成をお願いしたい。内容の確認は私がする」
「承知いたしました」
クラリッサが席についた。村人たちの視線はまだ硬いが、ロッテの一言が場を動かした。
* * *
午後。
クラリッサは集会所の机に向かい、申請書の草案を書いていた。
羽根ペンを走らせる手つきは慣れたものだった。帝都で聖女の公務をこなしていた頃、書類仕事は侍女任せだったが、エーデルシュタイン家の教育は基礎から叩き込まれている。
官僚機構の用語、申請の形式、添付すべき資料の一覧。頭の中に残っている知識を引き出し、紙の上に並べた。
「自治区の範囲は……グリュンハイム谷の東西境界と、聖域山脈の西端までですわね。人口は約五百人。主要産業は薬草栽培と温泉業。税収の算定基準は——」
村長が横で見ていた。
「驚いた。こういう知識がある人間が村にいるのは初めてだ」
「帝都にいた頃は、こんな知識は使い道がありませんでしたわ。聖女に書類仕事は求められませんもの」
「ここでは役に立つ」
クラリッサのペンが止まった。顔を上げ、村長を見た。
「……役に立つ」
「ああ。大いに助かる」
クラリッサは目を伏せた。小さく息を吐き、ペンを動かし直した。
* * *
同じ頃、マルタは温泉宿の裏手にいた。
壁に炭で線を引き、拡張計画の見取り図を描いている。
「ここに新しい湯船を増設して、こっちに休憩室を。隣村からのお客さんが増えてるから、部屋ももう二つ必要よね」
大工のゲオルクが横から覗き込んだ。
「柱の木材なら山から切り出せるが、瓦は隣町から取り寄せないとな」
「予算は温泉の収益から出すわ。ミーリアちゃんの薬湯のおかげで、先月は銀貨十八枚も売り上げたの。過去最高よ」
「薬湯がなくても大丈夫なのか。ミーリアちゃんがいない間——」
「源泉にミーリアちゃんが余韻を込めてくれたの。一ヶ月はもつって。その間に基礎工事を済ませて、帰ってきたらまた薬湯を仕込んでもらうわ」
マルタは炭の線を引き直し、満足げに頷いた。
* * *
夕方、ロッテが薬草園の手入れを終えて集会所に戻ると、クラリッサがまだ机に向かっていた。
紙が五枚ほど並んでいる。申請書の草案、添付資料の一覧、帝都への送付手順。整然とした字が並んでいた。
「まだやってるのかい」
「もう少しで一通り完成しますわ」
ロッテはクラリッサの隣に座った。草案に目を通した。読めない用語もあったが、体裁が整っていることはわかった。
「ふん。元偽聖女もやるじゃないか」
クラリッサが顔を上げた。ロッテの顔を見て、何を言うべきか迷っている様子だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらないよ。あんたが役に立つなら使うだけだ」
ロッテは立ち上がり、棚から薬草茶の瓶を取り出した。二人分淹れて、一つをクラリッサの前に置いた。
「飲みな。根を詰めすぎると体に悪い」
クラリッサが湯呑みを両手で包んだ。温かさが手のひらに染みた。
「ロッテさん」
「なんだい」
「わたくし——この村で、何かができるでしょうか。偽聖女だったわたくしに」
ロッテは薬草茶をひと口すすった。
「偽聖女だろうが本物だろうが関係ないよ。畑は手が足りなきゃ誰でも歓迎だ」
湯呑みを机に置いた。
「あんたの光属性A級だって、使いようによっちゃ薬草の成長を助けられるかもしれない。ミーリアちゃんの星脈共鳴とは違うが、光には光の使い道がある」
クラリッサの指が湯呑みの縁をなぞった。
「光には光の……」
「そうさ。北の苗床は崖の陰で日が足りない。朝のうちだけ、あんたの光を当ててごらん」
クラリッサは薬草茶を一口飲んだ。苦い。けれど体の芯に届く温かさがあった。
「……明日の朝から、やらせていただきますわ」
「夜明けに迎えに行くよ。長靴は貸してやる」
* * *
夜になった。
村は静かに眠りについていく。マルタの温泉宿の煙突から白い湯気が上がり、集会所の灯りが消え、民家の窓に蝋燭の光が灯っている。
ロッテが温泉の見回りに出た。源泉の様子を確認する。ミーリアが余韻を込めた源泉は、穏やかに湯を湧き出させ続けていた。
湯面を覗き込んだ。
微かに光っていた。
白銀の光が、湯の底で揺れている。ミーリアの星脈共鳴の余韻だ。ロッテは袖をまくり、指先を湯に浸した。熱い。昨日と同じ熱さだった。
ロッテは背を向けて歩き出した。薬草園を通り、聖樹の前を過ぎ、自分の小屋に戻る。
途中で足を止めた。
聖樹が微かに光っていた。幹の表面に、白銀の筋が走っている。ミーリアが注いだ余韻の一部が、聖樹にも届いているのだろう。
風がなかった。枝は動かない。けれど聖樹の根元で、地面が淡く光を帯びていた。
ロッテは幹に手を当てた。樹皮は冷たい。しばらく掌を置いてから離し、袖でこすった。
クラリッサが集会所の窓辺に立っているのが見えた。外を眺めている。聖域山脈の方角を。
ロッテは声をかけなかった。
小屋に戻り、寝台に腰を下ろした。
「帰ってきなよ、ミーリア」
呟きは誰にも届かなかった。
毛布を引き寄せ、蝋燭を吹き消した。窓の外から、湯の流れる音が細く聞こえていた。




