第79話 辺境の仕上げ
出発前日の昼下がり。
ミーリアは薬草園の中心に立っていた。足元の土は黒く湿り、薬草の根が地中深くまで伸びている。ここ数ヶ月で育てた薬草たちは、星脈共鳴の恩恵を受けてどの株も生命力に溢れていた。
ミーリアは袖をまくり、指で土をひとつまみ掬った。爪の間に黒い土が入り込む。
「一ヶ月分の余韻を込めます」
フェリクスが隣にいた。
「無理はするな。出発前に倒れたら本末転倒だ」
「大丈夫です。ヒカリグサの調合薬を飲んでから始めます」
ミーリアは瓶から薬を一口含み、飲み下した。苦い。けれどすぐに体の芯が温まり、核紋の周囲が軽くなる感覚があった。
両膝をついた。
手のひらを、土に押しつけた。
瞳が金色から白銀に変わった。
指先から光の脈が走り始めた。白銀の線が土壌の中を伸び、薬草の根に触れ、地中の水脈に沿って広がっていく。ゆっくりと。穏やかに。
爆発的な発動ではなかった。第四段階の全力ではなく、じわじわと染み込ませるような、優しい共鳴。ミーリアは目を閉じた。星脈の流れが手のひらから伝わってくる。土の温度、水分の量、養分の偏り。全てが感じ取れた。
「ここの土、少し酸性が強い。薬草の根が伸びにくくなっている……ここに重点的に、余韻を」
手のひらの下で、光が脈動した。土壌のバランスを整えながら、星脈のエネルギーを蓄積する。畝を一列ずつ、端から端へ。光が畝の終わりまで届くと、手を戻して次の列に移った。
ロッテが畑の端から見守っていた。腕を組み、目を細めている。
「あんたが最初に来た時は、枯れかけた苗を一本蘇らせるのがやっとだったね」
ミーリアは目を閉じたまま微笑んだ。
「ロッテおばさんに怒られました。『力の使い方が雑だ』って」
「今は上手くなったよ。雑じゃない。丁寧だ」
光が薬草園の隅々まで行き渡った。薬草の葉が微かに揺れ、花が少しだけ開いた。土の色が深くなった。
ミーリアは手を離し、立ち上がった。軽い頭痛があったが、倒れるほどではない。ヒカリグサの薬が効いている。
「これで薬草園は大丈夫です。次は温泉源泉に」
* * *
温泉の源泉は、グリュンハイムの東端にあった。
岩場の隙間から湯が湧き出し、白い蒸気が立ち上っている。湯の縁の岩が一枚だけ黒く煤けている。ミーリアが最初に薬湯を煮た鍋の跡が、そのまま残っていた。
岩に手を当てた。
星脈共鳴が自然に発動した。ここでは星脈が地表すぐ下を流れているから、共鳴が楽だった。白銀の光が岩肌を伝い、湯の中に溶け込んでいく。源泉の水面が光り、波紋が広がった。
湯温が一度だけ上がった。湯に含まれる星脈のエネルギーが増し、薬効が強まった。
「ここにも余韻を。マルタさんの温泉宿のお客さんが入っても、しばらくは効能が持続するように」
源泉への注入は十分ほどで終わった。ミーリアの額に汗が浮いている。
「二箇所で限度だな。これ以上やるな」
フェリクスが水筒を差し出した。ミーリアは受け取り、水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、火照った体を冷ました。
「ありがとうございます。これで一ヶ月は——大丈夫なはず」
「十分だよ」
ロッテが後ろから歩いてきた。温泉の湯気の中で、太い腕を胸の前で組んでいた。
「あたしらも成長したんだ。あんたが来る前は、この土地は自力でやってたんだから。多少のことなら自分たちでどうにかするよ」
「でも瘴気が——」
「来たらヒカリグサの薬を使うさ。作り方は教わった。分量も手順も紙に書いてもらった。あんたがいなくても、あたしらはやれる」
ロッテが太い指で腰の薬袋を叩いてみせた。中で瓶が鳴った。
* * *
夕方、ミーリアはクラリッサのもとを訪ねた。
小屋の前で、クラリッサが座っていた。膝を抱え、薬草園の方を見つめている。ロッテに貸してもらった古い椅子に腰かけ、足元に名も知らぬ草花が揺れていた。
「クラリッサさん」
「……ミーリア」
クラリッサが顔を上げた。一人称が「わたくし」ではなく名前で呼びかける声は、まだ慣れていないようだった。
「明日、出発します」
「知っています。村の人たちが話しているのが聞こえましたわ」
ミーリアは隣の椅子に座った。二人で並んで薬草園を見た。夕日が山の稜線に沈みかけ、畑が橙色に染まっている。
「帰ってきたら、ゆっくり話しましょう。あなたのこと、もっと知りたいんです」
クラリッサの目が見開かれた。
「……あなたは、わたくしを追放した人間に、そんなことを」
「追放されたから、今ここにいます。ここに来て、ロッテおばさんに薬草の刻み方を教わりました。だから——追放されたこと自体は、もう恨んでいません」
「でも」
「でも、あなたのことはまだよく知らない。あの夜、泣きながら話してくれたことは聞きました。でもそれはクラリッサさんの苦しみの話で、クラリッサさん自身の話じゃない」
クラリッサが黙った。
「好きな食べ物とか。子供の頃のこととか。エーデルシュタイン家でどんなふうに過ごしていたのか。そういうことを——知りたいです」
「なぜ」
「だからこそ、です」
ミーリアは立ち上がった。
「薬を出すとき、痛むところだけ聞いても足りないんです。何を食べたか、眠れたか、そこまで聞きます。クラリッサさんのことも、同じです」
クラリッサの唇が震えた。目に光が滲んだが、今度は涙をこぼさなかった。
「……帰ってきたら。話しますわ」
「約束ですよ」
「約束ですわ」
ミーリアは微笑み、小屋を後にした。
* * *
夜、聖樹の前にミーリアは立っていた。
巨木の幹に手を当てた。樹皮の凹凸が掌に伝わる。樹齢数百年の命の厚み。その奥から、聖樹の精霊の気配がした。微かに。遠くに。
〈行くのね〉
老婆の声。静かで、深い。
「はい。聖域山脈に」
〈あの子。一人だった。あなたは——違う〉
「一人じゃないです。フェリクスさんがいます。精霊のみなさんもいます。リーナさまも、あの東の方からの共鳴の方も——待っていてくれます」
聖樹の精霊が微かに笑った気がした。
〈よかった〉
フェリクスが聖樹の根元に寄りかかっていた。腕を組み、星空を見上げている。
「行くぞ。朝は早い」
「はい」
精霊たちが集まってきた。フィルが肩の上に止まり、翡翠色の光を点した。テラがミーリアの足元でゆっくり回った。アクアが空気中の水分を集め、小さな水の粒を光らせた。
〈行く。一緒。守る〉
フィルが宣言した。テラとアクアが頷いた。
ミーリアは精霊たちを見渡し、目が潤んだ。
「みんな——ありがとう」
聖域山脈の稜線が、星空の下で黒い影を落としていた。あの奥に、百年前の封印がある。
ミーリアは聖樹の幹から手を離した。掌に樹皮の細かい跡が残っている。
「水筒は朝に汲む。干し肉と薬瓶は袋に詰めた」
「ヒカリグサの薬も、あと二本入れておきます」
二人並んで宿への坂を下りた。背後で聖樹の葉が鳴り、その音が遠ざかっていった。




