第78話 出発の準備
出発まで三日。
ミーリアは薬草園の作業場にこもり、ヒカリグサの調合薬を作り続けた。
白銀に光る小さな薬草を石臼で擂り潰す。粉末を水で溶き、辺境の薬草三種と配合する。煮詰め、冷まし、瓶に詰める。一瓶あたりの分量は約三回分。
一本の栓を抜き、指先に一滴垂らして舐めた。苦い。舌の奥がひりついて、喉を通ってから胸の奥がすっと冷えた。指の先まで冷たさが降りていく。
「この配合で……体内の星脈回路にかかる負担を三割くらい軽減できるはず」
前世の知識が手を導いた。生薬の成分構造を思い出し、この世界の薬草に当てはめる。完全な再現ではないが、ヒカリグサの特殊な薬効がその差を補ってくれた。
作業場には薬草を煮詰める鍋の匂いが充満していた。石壁に湯気がつき、小さな窓から差し込む光の中を蒸気が漂っている。
ロッテが横で瓶の封をしていた。蝋を溶かし、瓶の口に垂らして固める。手慣れた動きだった。
「これで何本目だい」
「十二本です。あと八本作ります。村に残す分も含めて」
「村の分まで作るのかい。あんたが使う分だけでいいよ」
「もし瘴気が来た時に、誰かが体調を崩しても使えるように。煎じ方はこの紙に書いておきます」
ミーリアは調合の手順を紙に書き出した。ロッテが受け取り、目を通した。
「……細かいね、あんたは。行く前から帰ってきた後のことまで考えてる」
「帰ってくるつもりだからです」
ロッテが鼻を鳴らした。笑っているのか怒っているのか、わからない顔だった。
* * *
二日目の午後。
フェリクスが旅の装備を揃えていた。山守の小屋から引っ張り出してきた革の外套、ロープ、火打ち石。食料は干し肉と堅焼きパンと乾燥果実。水筒を二つ。
ミーリアが装備を並べるフェリクスの横に立った。
「多すぎませんか」
「足りないより多い方がいい。山は何が起きるかわからない」
「フェリクスさんの荷物、重そうです」
「お前の分も俺が持つ」
「わたしも自分の分は——」
「持つなと言ってる。お前は星脈共鳴に力を取っておけ。荷物で体力を消耗するな」
ミーリアは水筒に伸ばしかけた手を引いた。フェリクスがその水筒を自分の荷の紐に括りつけ、結び目を二度引いて締めた。
ハンス村長が集会所に村の主だった者を集め、ミーリア不在中の体制を確認した。薬草園はロッテが管理する。温泉の源泉はアクアが残って見守る。いや、アクアはミーリアと一緒に行くことになったので、マルタが湯温の管理を担う。
「アクアさん、本当にいいの? 源泉のこと——」
〈行く。ミーリア。守る〉
アクアの青い光が静かに灯った。
「ありがとう」
村長が頷いた。
「ミーリアさんがいなくても、この村はやっていける。あなたが作ってくれた基盤がある。薬草園は育っているし、温泉も安定している。安心して行ってきなさい」
ミーリアは集会所の窓の外を見た。湯煙が屋根の間を上っていく。ここに着いた日も、同じ煙が同じ高さで揺れていた。あのとき村長は、湯で温めた手ぬぐいを黙って差し出してきた。
隣でマルタが鼻をすすった。
「湯温の記録帳、あたしが付けるのよね」
「はい。朝と夕方の二回で足ります。数字がずれた日は、源泉の石の色を見てください」
「石の色ね。覚えたわ」
* * *
二日目の夕方、クラリッサが小屋から出てきた。
二日間眠り続けていたらしい。目の下の隈は残っているが、顔色は温泉と食事で少し戻っていた。ロッテが貸した地味な服を着て、髪を後ろで束ねている。帝都の令嬢の面影はほとんどなかった。
クラリッサはミーリアの作業場に来て、調合薬の瓶が並んでいるのを見た。
「出発の準備ですの?」
「はい。聖域山脈に行きます」
「わたくしも——行きます」
ミーリアは手を止めた。クラリッサの目を見た。
真剣だった。あの仮面の裏の目ではない。泣いた後の、素の目だった。
「あなたにしたことの償いを——」
「クラリッサさん」
ミーリアは穏やかに、けれどはっきりと言った。
「今回は、ここにいてください」
クラリッサが口を開きかけた。ミーリアが先に続けた。
「山の空気は、慣れない体を三日で潰します」
ミーリアは棚から瓶を一本取り、掌に乗せてクラリッサに見せた。蝋の封がまだ柔らかい。
「わたしはこれを三回に分けて飲みます。それで足りるかもわからない。クラリッサさんの分は、作れません」
「でも——」
「それに」
ミーリアは微笑んだ。
「帰ってきたら、ゆっくり話しましょう。あの夜の続きを。まだ聞きたいことがたくさんあります」
クラリッサの目が揺れた。
「あなたは——なぜ、わたくしにそこまで」
「わたしも、追放された後に行く場所がなかった。ここに来て、ロッテおばさんやフェリクスさんに受け入れてもらえました」
ミーリアは瓶を棚に戻し、封の蝋を指で押さえた。
「だからクラリッサさんにも、帰ってくる場所があった方がいいと思って」
クラリッサは黙った。唇を噛み、視線を落とした。長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……わかりましたわ。待っています」
「ありがとうございます」
* * *
三日目の朝。出発の日。
グリュンハイムの入口に、村人たちが集まっていた。
ミーリアは薬草園の作業着から旅装に着替えていた。ロッテが編んでくれた薬草の入った肩掛け鞄。フェリクスが用意した革の外套。足元は山歩き用の頑丈な靴。
ロッテが近づいてきた。大きな手でミーリアの肩を掴んだ。
「あんた。あたしに言うことがあるだろう」
「はい。薬草園をお願いします。ヒカリグサの苗は——」
「そんなことじゃないよ」
ロッテの声が少し震えた。
「行ってきな」
ロッテはミーリアの肩掛け鞄の口を開け、蝋で封をした瓶をもう一本ねじ込んだ。それから肩を掴んだ手にもう一度力を入れて、離した。服の布に太い指の形の皺が残った。
マルタが手を振った。
「帰ってきたら温泉よ! 最高のお湯を用意しておくから!」
ハンス村長が深く頭を下げた。
「村の誇りだ、ミーリアさん。行ってらっしゃい」
クラリッサが少し離れた場所に立っていた。目が赤い。泣いたのだろう。けれど今は泣いていなかった。小さく手を上げた。
フェリクスがミーリアの横に立った。荷物を両肩に背負い、山守の外套を纏っている。
「準備はいいか」
「はい」
フィルが空を舞った。翡翠色の光が朝霧の中を縫って飛ぶ。テラがミーリアの足元でゆっくり回った。アクアが肩の上に乗り、青い光を灯した。
ミーリアは振り返った。
グリュンハイムの谷間。湯煙が立ち上り、薬草園の緑が霧の中に浮かんでいる。聖樹が遠くで静かに光を放っていた。
ミーリアは肩掛け鞄の紐を握り直した。手のひらに瓶の重さが当たった。
「行ってきます」
ミーリアの声が谷間に響いた。
「必ず、帰ってきます」
フェリクスが歩き出した。ミーリアがその隣に並んだ。精霊たちが二人を取り囲むように光を撒きながらついてきた。
山道を上がっていく二人の背中が、朝霧の中に小さくなっていく。村人たちは姿が見えなくなるまで見送っていた。
ロッテは腕を組んで立ち続けていた。目元を一度だけ手の甲で拭い、背を向けた。
「さあ、仕事だよ。畑が待ってる」
鍬を肩に担いで、薬草園の畝の方へ入っていく。村人たちも一人ずつ持ち場へ散った。マルタだけが湯屋の前で立ち止まり、山道の方をもう一度見上げた。




