第77話 リーナからの手紙
翌朝、クラリッサはまだ眠っていた。
毛布にくるまり、小屋のベッドで丸くなっている。泣き疲れた顔には、昨夜までの張りつめた緊張がなかった。寝息が規則的に聞こえる。ミーリアは音を立てないよう扉を閉め、薬草園に向かった。
朝霧がグリュンハイムの谷間に漂っている。湯煙と霧が混じり合い、薬草園の緑がぼんやりと浮かんでいた。
昨日ミーリアが星脈の余韻を注いだ土壌が、朝露の下で微かに白い筋を残している。ロッテが畑の端でしゃがみ込み、薬草の根元の土をほぐしていた。
「おはようございます、ロッテおばさん」
「おはよう。元お嬢様はまだ寝てるかい」
「ぐっすりです」
「そうかい。泣き疲れたんだろうね」
ロッテは立ち上がり、土のついた手をエプロンで拭いた。ミーリアの顔をじっと見た。
「あんたも寝てないだろう」
「少しだけ。大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃないよ。まあ、いいけどね」
薬草園の手入れを始めた時、フェリクスが山道の方から降りてきた。手に小さな包みを持っている。
「朝飯。食え」
包みの中は干し肉と堅焼きパンだった。ミーリアは受け取り、パンをかじった。
「フェリクスさん、昨夜のこと……」
「聞いた。ロッテから」
フェリクスは腕を組み、薬草園の柵に背を預けた。琥珀色の目が遠くの聖域山脈を見つめている。山の稜線に薄い雲がかかり、頂は見えなかった。
「あの女を信じるのか」
「信じるとか信じないとか、まだわかりません。でも、あの涙は嘘じゃなかったと思います」
フェリクスは黙った。沈黙が長かった。風が薬草の葉を揺らし、ロッテの鍬の音が遠くから聞こえた。
「……お前がそう言うなら、俺は口を出さない。ただし、何かあれば俺が前に立つ」
「ありがとうございます」
朝食を終え、薬草の手入れに取りかかろうとした時だった。
「ミーリアちゃん! 手紙よ!」
マルタが温泉宿の方から走ってきた。手に封筒を掲げている。息を切らしながら薬草園の柵に辿り着いた。
「行商人のバルトさんが持ってきたの。銀色の蝋印つき。急ぎだって言ってた」
ミーリアは封筒を受け取った。銀色の蝋印。紫のインクで書かれた宛名。
リーナの手紙だった。
封を切った。銀色の蝋が二つに割れ、三つ折りの便箋が二枚すべり出た。一枚目の右上に、紫のインクの走り書きがある。
『薄氷の月 十一日 クレスタフェルデ家別邸にて
ミーリアさま
お元気でいらっしゃいますか。この手紙で三枚目です。前の二枚は暖炉に入れました。書きたいことが多すぎて、うまく並びませんでした。ですから、わたくしが鑑定した事実だけを下に記します。
一、聖域山脈の封印に亀裂が入っています。先月わたくしが視た時は四本、今月は七本。
一、このまま広がれば、百年前の大崩落と同じことが起こります。
一、封印の間の石を嵌め直すのに、要るものが三つ。わたくしの鑑定。あなたの星脈共鳴。東の迷宮都市にいる、もう一人の方の力。』
二枚目をめくった。一行目だけ筆圧が強く、紙の裏まで文字の溝が浮いている。
『三人揃わなければ、石は動きません。
場所は封印の間。到達は容易ではありませんが、大聖女アリーシアさまと同じ力を持つあなたなら、山が道を開くはずです。
次の新月までに。どうか。
リーナ・クレスタフェルデ』
署名の下でインクが尾を引いていた。便箋を裏返すと、同じ位置に紫の染みが抜けている。
ミーリアは便箋を胸に当てた。
「リーナさま……」
帝都の東回廊。石畳に膝をついて泣いていたミーリアの前に、銀色の髪の令嬢が立った。「泣いていても、何も変わりませんわよ」。
差し出された手袋の指先に、紫のインクが染みていた。ミーリアはその手を取り、膝についた埃を払って立った。
「どうした」
フェリクスが近づいてきた。ミーリアは便箋を差し出した。二枚目の中ほどで、フェリクスの指が止まった。それから腰の袋から丸めた獣皮を抜き、柵の上に広げた。
「聖域山脈だ」
焼き印の黒い線が、谷と川と稜線をなぞっている。指が稜線をたどり、中腹の一点で止まった。そこから先には何も描かれていない。獣皮の地肌が白いまま残っている。
「爺さんの兄貴が、ここまで登った。三日目に麓の者が担いで下ろした。口から泡を吹いてたそうだ」
「でも——わたしなら入れると思います」
フェリクスが顔を上げた。
「アリーシアさまの記憶を受け取った時に見えたんです。あの山は、封印を施した大聖女を覚えている」
ミーリアは獣皮の白い部分に指を置いた。
「同じ力を持つわたしなら、あの山は拒みません」
「根拠は」
「聖樹の精霊が教えてくれました。あの記憶の中で、アリーシアさまが聖域山脈に入っていく映像を見ました。山が——光の道を作って迎え入れていた」
フェリクスは腕を組んだまま黙った。長い沈黙。薬草園の風が二人の間を通り過ぎた。
「一人で行かせると思うか」
「え」
「俺も行く」
フェリクスは襟から紐を引き上げた。木を削った札が出てくる。表に三本の刻みが入っている。
「爺さんのだ。山に入る前に、これへ塩を擦り込む。そうすりゃ話が通る」
革袋の粗塩をひとつまみ札に落とし、親指で押し込んだ。余った粒が獣皮の白い部分に散った。
「それに——」
フェリクスが言葉を切った。
「お前を一人で行かせたら、また無茶をして倒れる。髪に白い筋が増えるのを見るのは——二度とごめんだ」
ミーリアは息を吸い込み、便箋の端を握った。指の跡が紙に残った。
「ありがとうございます。フェリクスさん」
手紙をもう一度読んだ。「もう一人の方」。あの日、星脈共鳴が暴走した時に東の方角から返ってきた共鳴。温かいのに、どこか怖い力。
「リーナさまの手紙に『もう一人の方』って書いてあります。あの時、東の方角から共鳴を返してくれた——あの人も来るのかしら」
「東か。迷宮都市の方角だな」
「どんな方なんでしょう」
「会えばわかる」
フェリクスは獣皮に散った塩を手の甲で払い落とし、端から巻いて革紐で二重に縛った。
「新月まで十二日。峠を二つ越える」
フィルが飛んできた。手紙の上を旋回し、翡翠色の光を点滅させた。
〈行く。遠い。でも、大事〉
「フィルさんも一緒に行ってくれますか」
〈もちろん〉
テラが畑の端からゆっくり転がってきた。アクアが温泉の方角から青い光を灯しながら近づいた。
〈行く〉
〈守る〉
精霊たちが揃って頷いた。ミーリアの目が潤んだ。
「みんな……」
ロッテが鍬を肩に担いで戻ってきた。
「どうしたんだい、みんなして深刻な顔して」
ミーリアがリーナの手紙の内容を伝えた。ロッテは黙って聞き、腕を組んだ。
「聖域山脈ねえ。遠いね。危ないね」
「はい」
「で、行くんだろう」
「はい」
「だろうと思ったよ」
ロッテはミーリアの頭をぽんと叩いた。
「あたしゃ留守番だ。薬草園は任せな。ヒカリグサの苗も管理しとくよ。行ってこい。ただし——」
ロッテの目が真剣になった。
「必ず帰ってきな。約束だよ」
「約束します」
ミーリアは星脈に手を伸ばした。足元の大地に意識を沈め、遠くへ問いかける。
応答があった。
東の方角。微かだが確かな共鳴。温かくて、力強い。
北の方角からも。冷たく研ぎ澄まされた、精密な旋律。
ミーリアは土から手を離した。爪の間に黒い土が挟まっている。フェリクスが背嚢に獣皮の筒を差し込み、蓋革を被せた。
ロッテが薬草園の杭に麻紐を巻きつけた。十二回巻いて、端を結んだ。




