第76話 クラリッサとの対話
温泉から上がったクラリッサの髪は、湯に濡れて肩に貼りついていた。
かつての艶やかな金髪は艶を失い、毛先が傷んで枝毛が目立つ。帝都で聖女を務めていた頃には考えられない姿だった。マルタが貸した寝間着は村の女のもので、クラリッサの細い体には大きすぎて肩が滑り落ちている。
薬草園の隣にある小屋の一室。ミーリアはテーブルの向かいに座り、薬草茶を二人分淹れた。
「どうぞ。体が冷えているでしょうから」
「……ありがとう、ございます」
クラリッサの声は掠れていた。薬草茶を受け取る手が震えている。湯呑みの熱さに指先が赤くなった。
沈黙が落ちた。
フィルが窓の隅で翡翠色の光を灯している。テラは部屋の端で、床板の継ぎ目に半分埋まったまま動かない。
クラリッサが口を開いた。
「全てお話ししますわ」
ミーリアは黙って頷いた。
「わたくしが聖女の座に就いたのは、ヴァレンシュタイン家の指示でした」
薬草茶の湯気が、クラリッサの顔の前で揺れた。
クラリッサが膝の上に載せていた布包みを、テーブルの上へ滑らせた。結び目が湯気で湿っている。
「湯に入る前に、脱いだ服から抜いておきましたの」
結び目をほどくと、折り畳んだ紙束が出てきた。端が焦げて、角が丸くなっている。ミーリアは一枚目を広げた。
封蝋の欠片が残っていた。ヴァレンシュタイン家の紋章。文面は指示書で、封印の観測記録をどう書き換えるかが箇条書きになっている。最後の行に、家の署名があった。
「三枚目に、数字が並んでおります」
ミーリアは三枚目をめくった。日付と、封印の出力を示す数値。数値は下へ下へと落ちていき、最後の行に赤い線が引かれていた。
「その線の日が、百年前の大崩落ですわ」
紙の端が、ミーリアの指の下で少し震えた。
「弱めたんですか。わざと」
「帝国が、あの家に命じて。……本物の聖女が封印に触れれば、その数字が見つかってしまいますから」
「だから、偽物が要った」
「ええ。わたくしですわ」
クラリッサの唇が薄く笑った。その笑みには自嘲だけが滲んでいた。
紙束の下から、もう一つ出てきた。掌に載る硝子の器。継ぎ目に金の細工が這い、腹に大きな罅が走っている。内側は煤で黒い。
「これを、胸に入れて儀に立っておりました」
クラリッサが器を傾けた。底に溜まった粉が、乾いた音を立てて片側に寄る。
「わたくしの光はA級ですの。この粉が焼ける分だけ、S級に見えました。あなたを『偽聖女』と呼んだ日も、胸の中でこれが焼けておりましたわ」
ミーリアの指先が、湯呑みの縁で止まった。
「あなたの力が本物だと、知っておりました。知っていて、やりましたの」
「あの大広間で、あなたが泣いていたのを覚えています。わたくしの光があなたの核紋を圧倒して、貴族たちが冷たい目であなたを見ていた」
テーブルの紙束が、湯気を吸って端から反り返っていた。
「あなたが回廊で一人で泣いていた姿も、見ておりましたわ」
「見ていたんですか」
「ええ。見ていて、何も感じませんでしたの。当然のことだと。わたくしがS級で、あなたはB級の小娘。立場が違うのだと。そう自分に言い聞かせておりました」
クラリッサの声が揺れ始めた。
「でも本当は怖かった。あなたの核紋が反応しなかったのは、帝都の星脈遮断結界のせいだと、後になって知りましたの」
湯呑みを持ち上げかけて、そのまま置いた。
「あなたのお力は、星脈共鳴と申すのだそうですわ。この器では、一生かけても追いつけない」
湯呑みを握る手の震えが大きくなった。薬草茶が波打ち、テーブルに数滴こぼれた。
「辺境であなたが花を咲かせ、枯れた畑を蘇らせたという噂が帝都に届いたとき、わたくしは」
言葉が途切れた。
「わたくしは、浄化の儀で同じことをしようとしました。三度。四度。五度。何度やっても、わたくしの光では、大地は応えてくれませんでしたわ」
クラリッサが顔を伏せた。金色の髪が頬にかかり、表情を隠した。
「全てわたくしの罪です。あなたを陥れ、偽物の力で帝国を欺いた。民の苦しみに応えられないと知りながら、聖女の座にしがみついた」
紙束の端を、指が撫でた。
「姉のフローラがあの家と組んだ恩恵に縋って、わたくし自身の意志など、最初からどこにもなかった」
声が割れた。
「わたくしには何もなかったのですわ。力も、意志も、居場所も。聖光の器がなければA級の力しかない。それすら今は、器が壊れて、わたくしの手には何も残っていない」
最後の言葉は、ほとんど呟きだった。
ミーリアは薬草茶をひと口飲んだ。温かい液体が喉を通り、胸の奥に沁みた。
拳を握り締めるような衝動は、不思議と来なかった。あの夜、宮廷の大広間で告発された時の冷たさは覚えている。回廊で一人で泣いた夜のことも忘れていない。
目の前の相手は、大きすぎる寝間着の肩を落として、湯呑みを両手で抱えていた。
「クラリッサさん」
ミーリアは静かに言った。
「あなたがわたしにしたことは、ひどいことでした。わたしは帝都を追われて、家族と離れて、ずっと、さみしかった」
クラリッサの肩が震えた。
「でも」
ミーリアは言葉を選んだ。
「あなたも、苦しんでいたんですね」
クラリッサが顔を上げた。目が赤い。涙がこぼれかけていたが、口角だけは帝都で覚えた角度に持ち上がっていた。膝の上で、両手が握り合わされている。
「同情などいりませんわ。わたくしは加害者です。あなたに許しを乞う資格など」
「資格の話はしていません」
ミーリアの声は穏やかだったが、芯があった。
「わたし、帝都を追われてここに来ました。何もない辺境で、薬草畑の土を触って、温泉に浸かって、フェリクスさんやロッテおばさんに支えてもらって」
湯気の向こうで、ミーリアが息を継いだ。
「やっと、立ち直れたんです。その時間がなかったら、わたしは今ここにいません」
ミーリアは手を伸ばし、テーブルの上のクラリッサの手に触れた。
「だから、今すぐ許すとか許さないとかは言えません。でも、あなたの話は聞きました。全部、聞きました」
クラリッサの目が見開かれた。帝都の作法で椅子の背から離していた背筋が、そのまま前へ折れた。膝が開いて、令嬢の座り方ではなくなった。
涙がこぼれた。堰を切ったように、一筋、二筋、頬を伝った。口元が歪み、声にならない嗚咽が漏れた。
「わたし……わたし、ずっと」
言い直そうとして、口が半端に開いたまま止まった。喉が鳴って、そのまま先へ進んだ。
「ずっと、怖かったの。偽物だって、いつかばれるって。毎日が怖くて、誰にも言えなかった」
言葉の合間に、息を吸い込む音が混じった。
「姉上にも頼れなかった。あの家に逆らえなかった。わたしには何もなかったの。何も」
嗚咽が言葉を飲み込んだ。クラリッサの肩が大きく揺れ、テーブルに突っ伏した。こぼれた薬草茶が、涙と混じってテーブルの木目に沁みた。
扉の外から足音がした。ロッテが入ってきた。状況を一瞬で見て取り、黙って棚から毛布を取り出した。クラリッサの肩にかけ、ぽんと背を叩いた。
「泣きな。泣きたいだけ泣きな。泣き終わったら茶を入れ直してやるから」
クラリッサは毛布に顔を埋めた。声を殺しきれない泣き声が、小屋の壁に吸い込まれていく。
ミーリアは椅子に座ったまま、窓の外に目を向けた。夜空に星が散っている。聖域山脈の稜線が月明かりに浮かんでいた。
フィルが窓辺に飛んできた。翡翠色の光がゆっくり明滅している。
〈泣いてる。でも温かい〉
ミーリアは小さく頷いた。
テーブルに散った紙束を集め、濡れていない端から順に重ねて、布に戻した。硝子の器は罅の側を上にして、その上に置いた。
クラリッサの嗚咽が静まるまで、ミーリアはそこにいた。ロッテが淹れ直した薬草茶を三人分並べた。誰も口をきかなかった。
やがてクラリッサが顔を上げた。目は腫れ、鼻の頭が赤い。毛布の端を両手で握り込んだまま、十九の娘が椅子に浅く座っていた。
「……ありがとう、ございます」
掠れた声で、クラリッサが言った。ミーリアでもロッテでもなく、この部屋にいる全てに向けた言葉だった。
窓の外で、星が一つ流れた。
「明日にゃ村中に知れ渡るよ。帝都の聖女様が、うちの小屋で泣いたってね」
ロッテが空いた湯呑みを重ねて立ち上がった。クラリッサは布包みを膝に戻し、結び目を握ったまま、まだ動かなかった。




