第75話 偽聖女の来訪
グリュンハイムの入口に、女が立っていた。
違う。立っていたのではない。石の門柱にすがりついていた。
ミーリアとフェリクスが山道を駆け下りて村に戻った時、門番のヤコブが困惑した顔で振り返った。
「ミーリアちゃん、フェリクス。この人が——」
門柱の影に、人が崩れていた。
旅装。かつては上等だったろう外套が泥と埃にまみれている。裾が破れ、留め金が一つ取れている。フードを被っていたが、ずれ落ちて、金色の髪が零れていた。手入れの行き届かない髪。枝毛が目立ち、泥が絡みついている。
靴が片方、底が抜けていた。素足に血が滲んでいる。
ミーリアは足を止めた。
金色の髪。細い肩。震える指先。
知っている。この人を。
女がゆっくりと顔を上げた。
クラリッサ・エーデルシュタインだった。
かつての優雅さは見る影もなかった。頬がこけ、唇の色が失せている。目の下に深い隈が刻まれ、青白い肌に泥の跡がこびりついていた。金色の瞳が、ミーリアを捉えた。
あの日、帝都の大広間で冷たく見下ろしてきた瞳。『光属性B級の小娘が聖女を名乗るなど、ローゼンクロイツ家の恥ですわ』と言い放った瞳。
今、その瞳は潤んでいた。
「……ミーリア」
クラリッサの声が掠れた。宮廷の令嬢の声ではなかった。砂利を呑んだような、乾いた声。
クラリッサが門柱から手を離した。膝が折れ、石畳の上に崩れ落ちた。旅装の泥が膝に広がる。
両手を地面についたまま、クラリッサは頭を下げた。
「助けて……くださいませ」
声が震えている。
「もう、どこにも——行く場所がないのです」
村人たちが集まってきた。ヤコブの声を聞いた者、山道から駆け下りる二人を見た者。温泉宿の窓からマルタが顔を出し、薬草園からロッテが歩いてきた。
誰もが、石畳に膝をついた金髪の女を見つめていた。
フェリクスの表情が険しくなった。体をミーリアの前に出し、クラリッサとの間に立とうとした。
ミーリアがフェリクスの腕に触れた。軽く。ほんの指先だけ。
フェリクスは動きを止めた。ミーリアの目を見た。ミーリアは小さく頷いた。
フェリクスは一歩下がった。
ミーリアはクラリッサの前に歩み出た。
石畳に膝をついている女を、見下ろした。
胸の中で、いくつもの感情が渦を巻いていた。
あの夜の記憶。帝都の回廊の冷たさ。追放の宣告。涙。クラリッサの冷笑。宮廷の貴族たちの冷たい視線。
けれどそれと同時に、別の記憶も浮かんだ。グリュンハイムに来た日。ハンス村長が穏やかに迎えてくれたこと。ロッテおばさんが「食べな」と差し出してくれた温かい粥。マルタの笑顔。フェリクスの不器用な花束。フィルの翡翠の光。
誰かに手を差し伸べてもらったから、今の自分がいる。
「立ってください、クラリッサさん」
ミーリアはクラリッサの腕を取った。
クラリッサが顔を上げた。金色の瞳が大きく見開かれている。
「立ってください。地面は冷たいですから」
クラリッサの体は軽かった。帝都から歩いてきた体は、骨と皮に近かった。腕を支えて立たせると、クラリッサの膝が震えた。
「まず温泉に入って、ご飯を食べて——それからお話しましょう」
クラリッサの目が揺れた。何かを言おうとして、唇が動いた。けれど声にならなかった。
マルタが前に出た。
「こっちよ。お湯の支度はできてるわ。ミーリアちゃんに来客があるって、精霊が教えてくれたの」
フィルが門柱の上で翡翠の光を灯していた。マルタの言う通り、精霊が先に知らせていたのだ。
マルタがクラリッサの反対側の腕を取り、温泉宿に向かった。クラリッサは足を引きずりながら歩いた。
ロッテが黙って二人の後ろについた。その手には、薬草茶の用意がある鉄瓶が握られていた。
* * *
温泉に浸かったクラリッサは、一時間近く出てこなかった。
マルタが心配して声をかけると、「もう少しだけ……」と消え入りそうな声が返ってきた。
ミーリアは食堂でフェリクスと待った。
「本当にいいのか」
フェリクスが低い声で聞いた。
「何がですか」
「あの女を受け入れることだ。お前を追放した張本人だぞ」
「知ってます」
ミーリアは杯の水面を見つめた。
「でも、あの人は今、助けを求めています。追い返す理由がありません」
「理由ならある」
「フェリクスさん」
ミーリアがフェリクスの目を見た。
「わたしが、受け入れたいんです」
フェリクスは口を閉じた。数秒の沈黙。それから、重い息を吐いた。
「……わかった」
「ありがとうございます」
「ただし、妙な真似をしたら追い出す。それは譲らない」
「はい。それでいいです」
扉が開いた。マルタに付き添われたクラリッサが食堂に入ってきた。
泥が落ち、髪が梳かれた。マルタが貸した部屋着を着ている。体の線が細い。鎖骨が浮き出し、手首が折れそうなほど細かった。
クラリッサは椅子に座った。テーブルの上に、ロッテが用意した薬草茶と粥が並んでいた。
クラリッサは粥を見つめた。目が潤んでいた。
「食べな。冷めるよ」
ロッテが素っ気なく言った。
クラリッサは匙を取った。手が震えて、粥が匙からこぼれそうになった。二度目で口に運んだ。
飲み込んだ瞬間、クラリッサの肩が震えた。
「……温かい」
小さな声だった。宮廷の令嬢の声ではなかった。ただの、疲れ果てた少女の声だった。
粥を半分食べ、薬草茶を一口飲んだところで、クラリッサの手が止まった。
「この薬草茶……」
「わたしが作りました。カミツレと、この地方の薬草を合わせたものです」
「美味しい……です」
クラリッサが薬草茶の杯を両手で包んだ。湯気が金色の睫毛を濡らした。
「ミーリア」
「はい」
「わたくしは——あなたにひどいことをした。帝都から追い出し、偽聖女の烙印を押した。それなのにあなたは……」
声が途切れた。杯を持つ手が震えている。唇を噛み、こらえようとしている。けれどこらえきれなかった。
「なぜ……助けてくれるのです」
「理由なんてありません。目の前で困っている人がいたら、手を差し伸べる。それだけです」
クラリッサの目から涙がこぼれた。
声を上げずに泣いた。肩を震わせ、杯を握りしめたまま、涙が頬を伝ってテーブルに落ちた。宮廷の仮面を被っていた頃には見せなかったであろう、素の涙だった。
ロッテが黙って布巾を差し出した。マルタが部屋の隅で口元を押さえていた。フェリクスは壁に背を預けたまま、窓の外を見ていた。
ミーリアは何も言わなかった。ただ、テーブルの向こうに座って、クラリッサが泣き止むのを待った。
長い時間が経った。
クラリッサが布巾で目元を拭い、顔を上げた。泣き腫らした瞳でミーリアを見つめた。
「あなたは……本当に聖女なのですわね」
声がまだ震えていた。けれどそこには、嘲笑も敵意もなかった。
「わたくしが偽物だったと——認めざるを得ませんわ」
ミーリアは首を横に振った。
「わたしは聖女じゃありません。ただの薬草師です」
窓の外で、聖樹が微かに光っていた。夜の闇の中で、梢が白銀の光を帯びている。
フィルが窓枠に止まった。翡翠の光を細く灯し、食堂の中をそっと照らしていた。




