第09話 帝都の影
朝の薬草畑で、ミーリアは苗の手入れをしていた。
テラが足元でのんびりと土に潜ったり出たりしている。顔を出すたびに「ぽこん」という小さな音がして、また沈んでいく。フィルは畑の上空を旋回し、葉に溜まった朝露を翡翠色の光で弾いて遊んでいた。水滴が虹のように光って散る。
穏やかな朝だった。
ミーリアは苗の根元の土をほぐしながら、昨日の堆肥の山を横目で見た。発酵が始まっているらしく、表面から薄い湯気が上がっている。ロッテに教わった通り、三日後に切り返す予定だ。
「ミーリアちゃん、手紙が届いてるよ」
マルタが小走りに駆けてきた。息が少し上がっている。手に封蝋のついた手紙を持っていた。赤い蝋に押された紋章を見て、ミーリアの指先が止まった。
薔薇と十字。ローゼンクロイツ公爵家の家紋だった。
「……実家から」
泥のついた手を膝の裾で拭ってから、手紙を受け取る。指先が、わずかに震えていた。
封を切った。蝋がぱきりと割れる音が、妙に大きく聞こえた。折りたたまれた羊皮紙に、見覚えのある筆跡が並んでいる。父の書記官の字ではない。家宰の定型文でもない。事務的で感情を排した、簡潔な文面。
——クラリッサ・エーデルシュタイン様が、帝国聖女に正式就任された。聖光の儀は成功裡に終了し、帝国宮廷はこれを祝している。ローゼンクロイツ家は現聖女を全面的に支持する立場を表明した。なお、本件に関する問い合わせは受け付けない。
ミーリアは手紙を読み終えて、静かに折りたたんだ。
胸の奥がきしむような痛みがあった。追放はもう覆らない。わかっていたことだ。聖光の儀で核紋が反応しなかった時点で、結果は決まっていた。けれど、家が「全面的に支持する」と宣言したこと。問い合わせを受け付けない、と書き添えたこと。それは公爵家がミーリアとの関わりを正式に断つという意味に等しかった。
文字にされると、それは釘のように刺さった。
「……大丈夫?」
マルタの声が、少し遠くから聞こえた。ミーリアは顔を上げて、小さく微笑んだ。
「はい。大丈夫です」
嘘ではなかった。ここにいると、帝都の痛みは遠い記憶のように思える。ロッテの声、マルタの笑い声、フェリクスの無言の差し入れ。精霊たちの光。それらが、胸の痛みに布をかけてくれている。
ただ——家族のことだけが、引っかかった。姉のエリーゼは元気だろうか。父は、顔色の悪い日が続いていなかっただろうか。
フィルが肩に止まった。いつもより静かに、翡翠色の光を灯している。
〈痛い?〉
「ううん。もう大丈夫だよ、フィルさん」
ミーリアは手紙を畳んで懐にしまい、苗の手入れに戻った。土の匂いが、鼻腔を満たした。湿った土の、生きている匂い。それが少しだけ、気持ちを落ち着かせてくれた。
* * *
——同日。帝都イグナシオン。
浄化の儀は、帝都近郊の枯れた農地で執り行われた。
新帝国聖女クラリッサ・エーデルシュタインの、最初の公式な大仕事である。
白い祭服を纏い、金糸の髪を風に流しながら、クラリッサは農地の中央に立った。周囲には宮廷官僚が五名、護衛の騎士が十二名。遠巻きに農民たちが百人ほど集まり、固唾を飲んで聖女を見つめている。
枯れた農地。ひび割れた土が灰色に乾き、雑草さえ枯れて風に揺れている。作物が二期連続で実らなかった土地だ。帝国聖女の力で蘇らせる——それが、浄化の儀の目的だった。
クラリッサは深く息を吸った。祭服の下で、胸元に隠した「聖光の器」が微かに震える。拳ほどの魔導具。エーデルシュタイン家の技術の粋を集めた装置。核紋の出力を増幅し、A級の光属性をS級相当に引き上げる。
「星神よ、この地に光を」
両手を広げた。魔導具が起動する。体の芯から光が湧き上がり、クラリッサを中心に金色の光柱が空に伸びた。
農民たちから歓声が上がった。
「おお、聖女さまの光だ!」
「すごい……まばゆい!」
光が農地に降り注いだ。金色の輝きが枯れた土を包み込み、一面が黄金に染まる。見た目は美しかった。神々しいとさえ言えた。
光が収まった。
クラリッサは手を下ろし、足元を見た。
土は光に包まれていた。表面が金色に輝いている。だが——。
指先を動かした。感覚がない。大地の反応がない。光は土の表面を照らしただけだった。根を張る力も、芽を出す力も、土に戻っていない。まるで金箔を被せたように、上から覆っただけ。
翌朝、宮廷官僚から報告が届いた。金色の光は夜明けとともに消え、枯れた農地はそのままだった。ひび割れた土に、何ひとつ変わったところはない。
報告書を読んだクラリッサは、控え室の鏡の前で立ち尽くしていた。
祭服の衿を両手で握りしめる。絹の布が皺になるほど力を込めて。鏡に映る自分の顔は、完璧だった。金色の髪、碧い瞳、白い肌。帝国聖女にふさわしい美貌。
だが、手が震えていた。
「なぜ」
声が廊下に漏れないよう、唇だけが動いた。
「わたくしの光では、大地が応えないの」
光は届いた。出力は十分だった。「聖光の器」は正常に機能していた。S級相当の光属性が大地に降り注いだ。
なのに、大地が蘇らない。
まるで、光だけでは足りないと拒まれたかのように。
鏡のなかの自分を睨みつけた。整った顔立ち。完璧な祭服。帝国聖女の肩書。ヴァレンシュタイン家の後ろ盾。すべて揃っている。何が足りないというのか。
「聖光の器の出力をもう一段上げる必要があります。姉上……エーデルシュタイン家に技術者の派遣を要請いたしますわ」
控え室の扉の向こうで、官僚たちのひそひそ声が漏れ聞こえた。声をひそめているが、壁が薄い。
「——浄化の儀が失敗だと?」
「声が大きい。だが事実だ。光で土が蘇った記録はある。なぜ今回は——」
聞き取れなくなった。
聞き取りたくなかった。
* * *
その夜、帝都の空に月が昇った。
いつもの白銀の月ではなかった。赤みを帯びた月だった。薄い膜を被ったように輪郭がぼやけ、星が月の周囲だけ見えなくなっている。
クラリッサは宮殿の窓辺に立ち、その月を見上げた。祭服はもう脱いでいる。薄い室内着の肩が、窓からの冷たい風に震えた。
「なぜ大地が応えないの」
同じ言葉が唇からこぼれた。声は誰にも届かず、石の壁と天蓋の間に消えていった。
赤い月の光が、窓枠の影を床に細く落としている。
* * *
——同じ夜。辺境自治区グリュンハイム。
ミーリアは宿の窓辺に、小さな瓶を置いていた。水を張った瓶に、フェリクスがくれた白い花が三本、まだ瑞々しく咲いている。
窓の外には星が散りばめられていた。帝都の空では見えなかった小さな星まで、ここではくっきりと光っている。
フィルが窓辺に止まって、花のそばで翡翠色に光った。
〈綺麗。光、まだある〉
「うん。まだ元気だね」
ミーリアは花弁にそっと指を触れた。あの夜の銀色の光は、もう見えない。けれど花はまだ枯れていない。山の水が合っているのかもしれない。
帝都のことを考えた。クラリッサが聖女になった。ローゼンクロイツ家はそれを支持した。ミーリアの居場所は、もう帝都にはない。
胸が少しだけ痛んだ。けれど、窓の外の星を見ていると、痛みはゆっくりと薄れていった。
遠くで、フクロウが鳴いた。




