第10話 花咲く大地
異変に気づいたのは、テラだった。
朝の薬草畑で、ミーリアが水やりをしていたとき、足元の地面から土色の球体がぽこんと飛び出してきた。いつもの「ぽこん」とは違う。勢いがあった。
〈痛い。土、痛い〉
テラの目がぎゅっと閉じられている。小さな体が震え、表面の色がいつもの茶色から灰色に変わっていた。
「テラさん? どこが痛いの。教えてくれますか」
〈こっち。ずっと、こっち〉
ミーリアはしゃがみ込んだ。テラが指し示すほうに目をやると、薬草畑の東の一角が変色していた。
緑だった葉が茶色く縮れている。茎が折れ、地面に倒れた薬草が十株ほど。葉の先端から根元に向かって、茶色い変色が広がっている。昨日の夕方には、どれも元気だった。
「ロッテさん!」
ミーリアの声に、ロッテが作業場から飛び出してきた。枯れた一角を見て、顔が強張った。
「何だい、これは——」
ロッテが膝をつき、枯れた薬草を引き抜いた。根が黒ずんでいる。爪で根を割ると、中まで茶色く変色していた。
「根腐れ……にしちゃ広すぎる。一晩でこんなに枯れるなんて聞いたことがない」
「昨日の夕方は、なんともなかったんです。水をやったとき、葉も茎も」
「一晩か。……一晩で、これかい」
ロッテが立ち上がって、畝の境目を指でなぞった。
「病気なら隣の畝にも移ってるはずだ。なのにここだけ、ぱっくり枯れてる」
「境目が、線みたいにまっすぐです」
「そうさ。虫でも病気でも、こんな切り方はしないよ」
テラが地面に体を押しつけて、ぶるぶると震えている。
〈冷たい。土、冷たい〉
「この東の畝はね、去年、乾燥草を四十束出したんだ。冬の塩も薬も、あれで買ってる」
ロッテが黒い根を投げ捨てた。土のついた手を、前掛けで二度こすった。
「今年は十束も取れやしないよ。ミーリア、あんたに何かわかるかい」
「わたし、土に触ってみてもいいですか」
「好きにしな。もう枯れてるんだ」
ミーリアは枯れた一角の前にしゃがみ込んだ。両手を土の上に置く。指の腹が、じんと冷えた。
畑の他の場所にある、あのやわらかい温もりがない。何かが地面の中から抜け落ちてしまったような、空洞の感触。伝わってくるのは、冷たさと——痛み。
「ロッテさん、この土……元気がないです。生きている感じがしない」
「見りゃわかるよ。だけど原因が——」
「待ってください」
ミーリアは両手を土に押しつけたまま、目を閉じた。聖樹で聞いた、あの振動。大地の歌。耳を澄ませば、ここでも聞こえるだろうか。
聞こえた。だがそれは歌ではなかった。途切れ途切れの、弱々しい脈動。息が止まりかけている生き物の鼓動のように、頼りなく揺れている。
言葉が口から自然にこぼれた。
「ごめんね。辛かったね」
誰に言ったのかわからない。土に。枯れた薬草に。テラに。
指先が、熱くなった。
* * *
先に声を上げたのはロッテだった。
「ミーリア、あんたの手——」
ミーリアの指先から、白銀の光が滲み出していた。淡い脈のように地面を走り、枯れた薬草の根元へ放射状に伸びていく。
蛍の群れが土の下を泳ぐように、光の筋が伝っていた。一本、二本と枝分かれし、網目になって畝の端まで届く。
淡い金色の虹彩が、内側から染まるように白銀へ変わっていく。瞳の奥に灯がともったように、ミーリアの両目が銀色に輝いた。
「ミーリア! あんた、目が——ちょいと、こっち向きな!」
ロッテの声が遠くに聞こえた。
ミーリアの意識は、地面の下に沈んでいた。手のひらを通じて、土の中が見える。冷たく滞った流れ。栄養を運ぶ道が、詰まっている。
毛細血管のように張り巡らされた細い道が、ところどころで途切れて、暗い。白銀の光が、その詰まりをやさしく解いていく。
押し流すのではない。温めて、ほぐして、もう一度流れを作り直す。凍えた土に温度が戻り、硬く閉じていた粒が開き始める。
折れた茎が震え、根元から白い芽が顔を出した。二つの子葉が、恐る恐る開くように土を押し上げてくる。
「そんな根から芽が出るもんかい。あたしゃ四十年、畑をやってるんだよ」
黒ずんだ根から灰色が褪せ、白い根毛が先端から伸びた。土に潜り、水を吸い上げ始める。根のまわりに、微かな光が灯る。
子葉が指の長さまで伸び、葉の裏に細かな毛が立った。茎が土から抜け出て、空へ向かって立ち上がる。葉と葉が擦れる音が、畑じゅうで鳴った。
「立ってる……株が、立ち上がってくよ」
ロッテの手から、握ったままだった根が落ちた。
薬草の花だ。白い小さな花弁が、枯れていた一角を埋め尽くすように開いていく。朝日を受けて、花弁の一枚一枚が銀色に光っている。
〈嬉しい。大地、嬉しい〉
テラが地面から弾け飛んだ。灰色だった体が黄金色に変わり、光を撒き散らしながら花のあいだを転がっている。
フィルが翡翠色の輝きを散らしながら花畑の上を飛び回った。
〈咲いた。咲いた〉
〈風、あまい〉
アクアがどこからともなく現れた。温泉のそばにいたはずの水の精霊が、花の上に細かな露を降らせていく。水滴が朝日を受けて、虹の粒になった。
〈冷たいの、あげる〉
ミーリアのまわりを、三体の精霊が光りながら回っている。
ロッテが立ち尽くしていた。両手が宙に浮いたまま、口が半分開いている。
「なんだい……なんだい、これは」
精霊の光が、花弁のあいだを飛び交っている。
「あたしの目がおかしいのかい。誰か、ほっぺた叩いとくれ」
* * *
光が収まった。
白銀の脈が、ゆっくりと地面に沈んでいく。銀色の光がミーリアの瞳孔のまわりから薄れ、もとの淡い金色が戻ってくる。
頭の奥が、ずきりと痛んだ。こめかみを突くような鋭い痛み。視界が揺れた。花畑がぐにゃりと歪む。膝に力が入らなくなって、体が横に傾いた。
「——っ」
倒れる寸前、背中を支える腕があった。フェリクスだった。
山の見回りの途中だったらしい。革のベルトに山刀を佩いたまま、片腕でミーリアの体を支え、もう片方の手で肩を押さえている。
「フェリ、クスさん……」
「喋るな。じっとしてろ」
「でも、土が……まだ途中で」
「終わってる。花が咲いてる」
声は低く、硬かった。だが支える腕は丁寧で、ミーリアの頭が揺れないように肩口に寄せている。革のベルトの金具が頬に当たって、ひんやりと冷たかった。
「えっと……わたし、何をしたんでしょう」
「目を閉じろ。後で話す」
「ロッテ。水を持ってこい。冷たいやつだ」
「あ、ああ。すぐに」
だがロッテは水を取りに行かなかった。花畑にしゃがみ込み、白い花に指を触れる。花弁が指の腹で小さく揺れた。
「……一株、二株。三株、四株」
抜いて捨てた分まで数え直して、途中で止まった。膝が土に沈んでいる。
「四十束ぶんは越えてるよ。去年より多い」
「乾燥草にするなら、開ききる前に刈るんだよ。……刈れるのかい、これ」
「水だ、ロッテ」
「あ、あんた、これ……どうやったんだい、ミーリア」
「本人に訊くな。今は寝かせる」
ミーリアは言われるままに目を閉じていた。頭痛が脈打つように続いている。だが光の残像がまぶたの裏で揺れていた。白い花。銀色の脈。テラの歓喜の声。
「……お花、咲きましたか」
「咲いた」
「よかった。テラさんが、痛いって言っていたので」
「もう痛くないですか、って訊いてるのか」
「はい」
「知らん。転がってる」
フェリクスはミーリアを抱えたまま、一面の花を見ていた。朝日が斜めに差し込んで、花畑全体が銀色に輝いている。
「……これは、光属性じゃない」
フェリクスの声がかすれた。山刀の柄を握り直す。
「光は傷を塞ぐ。土までは動かない」
喉が一度鳴った。
「聞いたことがあるのは、百年前の大聖女だけだ」
「わたし、何か壊してしまいましたか」
「逆だ」
ミーリアの顔を見下ろし、花畑を見渡し、もう一度ミーリアに目を戻した。
「お前の力は——」
言葉が途切れた。続きが出てこない。
ミーリアは薄目を開けた。フェリクスの横顔が間近にあった。琥珀色の瞳に、白い花と銀色の光が映り込んでいる。
「……フェリクスさん?」
フェリクスは答えなかった。肩を押さえた手が、そこから動かない。指の関節が白くなっている。




