第10話 花咲く大地
異変に気づいたのは、テラだった。
朝の薬草畑で、ミーリアが水やりをしていたとき、足元の地面から土色の球体がぽこんと飛び出してきた。いつもの「ぽこん」とは違う。勢いがあった。
〈痛い。土、痛い〉
テラの目がぎゅっと閉じられている。小さな体が震え、表面の色がいつもの茶色から灰色に変わっていた。
「テラさん? どうしたの」
ミーリアはしゃがみ込んだ。テラが指し示すほうに目をやると、薬草畑の東の一角が変色していた。
緑だった葉が茶色く縮れている。茎が折れ、地面に倒れた薬草が十株ほど。葉の先端から根元に向かって、茶色い変色が広がっている。昨日の夕方には、どれも元気だった。
「ロッテさん!」
ミーリアの声に、ロッテが作業場から飛び出してきた。枯れた一角を見て、顔が強張った。
「何だい、これは——」
ロッテが膝をつき、枯れた薬草を引き抜いた。根が黒ずんでいる。爪で根を割ると、中まで茶色く変色していた。
「根腐れ……にしちゃ広すぎる。一晩でこんなに枯れるなんて聞いたことがない。土が死にかけてるんだ」
テラが地面に体を押しつけて、ぶるぶると震えている。
〈冷たい。土、冷たい〉
「ミーリア、あんたに何かわかるかい」
ロッテの声には切迫した響きがあった。薬草畑はグリュンハイムの生命線だ。薬草が取れなければ、村の収入の柱が折れる。
ミーリアは枯れた一角の前にしゃがみ込んだ。両手を土の上に置く。
冷たかった。
畑の他の場所にある、あのやわらかい温もりがない。土が凍えている。何かが地面の中から抜け落ちてしまったような、空洞の感触。指先を通じて伝わるのは、冷たさと——痛み。
「ロッテさん、この土……元気がないです。生きている感じがしない。何かが、この土から出ていってしまった」
「見りゃわかるよ。だけど原因が——」
「待ってください」
ミーリアは両手を土に押しつけたまま、目を閉じた。聖樹で聞いた、あの振動。大地の歌。耳を澄ませば、ここでも聞こえるだろうか。
聞こえた。
だがそれは歌ではなかった。途切れ途切れの、弱々しい脈動。息が止まりかけている生き物の鼓動のように、頼りなく揺れている。
言葉が口から自然にこぼれた。
「ごめんね。辛かったね」
誰に言ったのかわからない。土に。枯れた薬草に。テラに。あるいは、この地面の下で途切れかけている何かに。
指先が、熱くなった。
* * *
最初に気づいたのはロッテだった。
「ミーリア、あんたの手——」
ミーリアの指先から、光が滲み出していた。
白銀の光。
淡い脈のように地面を走り、枯れた薬草の根元に向かって放射状に広がっていく。蛍の群れが地面の下を泳ぐように、光の筋が土の中を伝っていた。一本、二本と枝分かれし、網目のように広がっていく。
ミーリアの瞳が変わった。
淡い金色の虹彩が、内側から染まるように白銀に変わっていく。瞳の奥に光が灯ったように、両目が銀色に輝いている。
「ミーリア!」
ロッテの声が遠くに聞こえた。
ミーリアの意識は、地面の下に沈んでいた。手のひらを通じて、土の中が見える。感じ取れる。冷たく滞った流れ。栄養を運ぶ道が、詰まっている。毛細血管のように張り巡らされた細い道が、ところどころで途切れて、暗い。
白銀の光が、その詰まりをやさしく解いていく。押し流すのではない。温めて、ほぐして、もう一度流れを作り直す。ゆっくりと、丁寧に。凍えた土に温度が戻り、硬く閉じていた粒が開き始める。
枯れた茎が、震えた。
折れた茎の根元から、白い芽が顔を出した。二つの子葉が、恐る恐る開くように土から伸びてくる。
黒ずんだ根が、ゆっくりと色を取り戻していく。灰色が褪せ、白い根毛が先端から伸びる。土に潜り、水を吸い上げ始める。根のまわりに、微かな光が灯る。
芽が伸びた。
葉が開いた。
茎が空に向かって立ち上がった。
そして——花が咲いた。
薬草の花だ。白い小さな花弁が、枯れていた一角を埋め尽くすように開いていく。一輪、また一輪と。光が広がるのに合わせて、花がひらいていく。やがて一面の白になった。朝日を受けて、花弁の一枚一枚が銀色に光っている。
〈嬉しい。大地、嬉しい〉
テラが地面から弾け飛んだ。灰色だった体が黄金色に変わり、光を撒き散らしながら花のあいだを転がっている。
フィルが翡翠色の輝きを散らしながら花畑の上を飛び回った。
〈咲いた。咲いた〉
アクアがどこからともなく現れた。温泉のそばにいたはずの水の精霊が、花の上に細かな露を降らせていく。水滴が朝日を受けて、虹の粒になった。
精霊たちが集まっている。ミーリアのまわりを、三体の精霊が光りながら回っている。
ロッテが立ち尽くしていた。両手が宙に浮いたまま、口が半分開いている。
「なんだい、これは……」
声が震えている。枯れていた一角が、畑でもっとも美しい花畑に変わっていた。白い花が風に揺れ、銀色の光を反射し、精霊の光が花弁のあいだを飛び交っている。
* * *
光が収まった。
白銀の脈が、ゆっくりと地面に沈んでいく。ミーリアの瞳が、白銀から金色に戻っていく。銀色の光が瞳孔のまわりから薄れ、もとの淡い金色が戻ってくる。
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
こめかみを突くような鋭い痛み。視界が揺れた。花畑がぐにゃりと歪む。膝に力が入らなくなって、体が横に傾いた。
「——っ」
倒れる寸前、背中を支える腕があった。
フェリクスだった。
いつの間に畑に来ていたのか。山の見回りの途中だったらしい。革のベルトに山刀を佩いたまま、片腕でミーリアの体を支え、もう片方の手で肩を押さえている。
「フェリ、クスさん……」
「喋るな。じっとしてろ」
声は低く、硬かった。だが支える腕は丁寧で、ミーリアの頭が揺れないように肩口に寄せている。革のベルトの金具がミーリアの頬に当たって、ひんやりと冷たかった。
「えっと……わたし、何をしたんでしょう」
「目を閉じろ。後で話す」
ミーリアは言われるままに目を閉じた。頭痛が脈打つように続いている。だが光の残像がまぶたの裏で揺れていた。白い花。銀色の脈。テラの歓喜の声。
フェリクスの腕の温もりと、精霊たちの明るい気配が、痛みの隅で光っていた。
ロッテが花畑を見渡しながら、ぽつりと呟いた。
「……奇跡だよ。これは、奇跡だ」
フェリクスはミーリアを抱えたまま、一面の花を見ていた。
白い花弁が風に揺れている。朝日が斜めに差し込んで、花畑全体が銀色に輝いている。枯れた土が命を取り戻した。死にかけた薬草が花を咲かせた。それを成し遂げたのが、腕の中で目を閉じているこの小さな女だった。
「……これは、光属性じゃない」
フェリクスの声が、かすれた。
「光属性で大地が蘇り、花が咲いた記録は——百年前の大聖女以来、一度もない」
言葉を区切った。ミーリアの顔を見下ろし、花畑を見渡し、もう一度ミーリアに目を戻した。
「お前の力は——」
言葉が途切れた。続きが出てこない。
ミーリアは薄目を開けた。フェリクスの横顔が間近にあった。琥珀色の瞳に、白い花と銀色の光が映り込んでいる。
彼の腕が、微かに震えていた。




