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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第08話 聖樹の祠

聖樹は、グリュンハイムの北の丘に立っていた。


 朝の霧が丘の裾をゆっくりと這い上がり、巨木の根元を白く包んでいる。樹齢数百年と言われるその木は、幹の太さだけで大人三人が手をつないでも足りないほどだった。苔が幹を覆い、太い根が地面を縫うように四方に広がっている。


 根元には古い石造りの祠があった。苔むした石に刻まれた文様は、風雨に削られてほとんど読み取れない。供えられた花だけが新しく、白い花弁に朝露が光っていた。


「この聖樹には、精霊が宿っていると伝えられておる」


 ハンス村長が杖を突きながら、ゆっくりと語った。白いあごひげが霧に湿って、銀色に光っている。足取りは確かだが、丘の傾斜に少し息が上がっていた。


「わしらは季節ごとに花と果実を供え、大地の恵みに感謝する。帝都の星神教とは違う、古い信仰だ」


「精霊の信仰……」


 ミーリアは聖樹を見上げた。枝が空を覆い、木漏れ日が地面に光の模様を作っている。空気が違う。帝都の宮廷とも、温泉のそばとも、薬草畑とも違う。もっと深い、古い何かが満ちている。息を吸い込むと、胸の奥までしんと冷たいものが通った。


 フェリクスが一歩後ろに控えていた。腕を組み、琥珀色の目で聖樹の幹を見つめている。口は閉じたまま。この場所に来ると、彼はいつもより寡黙になるようだった。


「フェリクスの家は代々、精霊の番人を務めておる。この聖樹のことも、よく知っておるだろう」


「……ああ。婆さんに連れられて、毎朝ここに来てた」


「フェリクスさんのお祖母さまも、精霊と話せたんですか?」


「話せた、というより、通じた。精霊の気配を読むのが上手かった」


 短い言葉に、敬意がにじんでいた。


「ミーリアさん、よければ幹に手を触れてみなさい。精霊に挨拶するのが、この土地の慣わしでな」


 村長に促され、ミーリアは祠の前を通って聖樹に近づいた。足元で根が蛇のようにうねり、苔が靴底を湿らせた。


 幹の前に立った。間近で見ると、樹皮の皺は深い。年輪がそのまま外に出たような、幾重もの溝。苔と苔のあいだから、灰色の樹皮が覗いている。


 右手を当てた。


 樹皮はざらざらとして、温かかった。木の体温。生きている存在の温度。指先にその温もりが伝わった瞬間——。


 足元から、振動が駆け上がってきた。


 低い、低い音。地鳴りとは違う。もっと規則的で、もっとやわらかい。大地そのものが息をしているような、ゆっくりとした脈動。


 ミーリアは目を見開いた。


「なんだろう、この音……」


 手のひらを通じて、幹の奥から何かが響いてくる。ゆっくりとした鼓動のようなリズム。上がって、下がって、また上がる。呼吸に似ているが、もっと大きい。この丘の下を、いや、もっとずっと深いところを流れるものの脈拍。


「地面の下から、何か聞こえます。ずっと奥のほうから……歌っているみたいな」


「歌?」


 ハンス村長が眉を上げた。フェリクスが一歩前に出る。


「俺には聞こえない。村長は?」


「いいや。何も聞こえんが……」


 二人とも耳を澄ましている。フェリクスは膝をつき、地面に手を当てた。しばらくそのまま動かなかったが、やがて首を横に振った。


「振動はある。だが音は聞こえない」


 ミーリアだけに聞こえている。


 フィルが突然、翡翠色の光を激しく明滅させた。ミーリアの手のそばまで飛んできて、興奮したように羽ばたく。小さな体が回転し、光の粒を撒き散らしている。


〈聞こえる。この人、聞こえる〉


 フィルの感情が弾けるように伝わってきた。驚き。歓喜。そして——長いこと待ち望んでいた、という深い感覚。


「フィルさん? あなたにも聞こえるんですか」


〈ずっと。ずっと、鳴ってた〉


 ミーリアは手のひらを幹に押しつけたまま、目を閉じた。振動が腕を伝い、胸の奥に響く。温かくて、少し切ない音色。何かを訴えている。何を言っているのかはまだわからない。けれど確かに——生きている。大地が、生きて、歌っている。


* * *


 幹から手を離すと、振動はすうっと遠ざかった。潮が引くように、音が地面の奥に沈んでいく。


 ミーリアが息をつくと、ハンス村長が穏やかな目でこちらを見ていた。杖の先を地面に軽く押しつけ、何かを確かめるようにしている。


「ミーリアさん。あなたに聞こえたものは、おそらく星脈の歌だ。この聖樹は、星脈が地表に近い場所に根を張っておる。だから精霊が集まり、温泉も湧く」


「星脈の……歌」


「精霊たちは常にその歌を聞いている。だが人間で聞こえた者は、わしの記憶にはおらんな」


 フェリクスの視線がミーリアに注がれている。琥珀色の目が、いつもより真剣だった。唇を引き結んで、何かを考え込んでいる表情。


 そのとき、聖樹の幹が微かに光った。


 苔のあいだから、淡い金色の筋が浮かび上がる。根元から幹へ、幹から枝へ、光の脈が這い上がっていく。ミーリアは息を呑んだ。


 幹の奥に——影が見えた。


 人の形をした、ぼんやりとした輪郭。小柄で、背が曲がっている。老婆のシルエット。光の粒で構成された、透き通った姿。目があるのかないのかもわからない。だがミーリアのほうを、じっと見つめているのがわかった。


 視線が交わった。


 ミーリアは動けなかった。声も出なかった。体が凍りついたのではない。動く必要がなかった。この場所で、この瞬間、じっとしていることが正しいと、体の奥が知っていた。


 老婆の影は、何秒かミーリアを見つめた。光の粒がゆっくりと瞬く。表情はない。だがそこに宿る気配は——穏やかで、深い。


 やがて影はゆっくりと幹の奥に沈んでいった。金色の筋も消えた。後にはただ、苔むした樹皮だけが残る。


「……今の」


 フェリクスが息を呑む音が聞こえた。


「見えたのか」


「はい。お婆さんの……影みたいなものが。幹の中から、わたしを見ていました」


 ハンス村長の杖が、一度だけ地面を叩いた。


「なんと。聖樹の精霊が姿を見せたのか」


 村長の声が、低く震えていた。驚きを押さえ込んでいるのが、声の硬さでわかった。


「この聖樹に宿る大精霊じゃ。わしも一度だけ、幼いころに光の揺らぎを見た。だが人の形をとったのは……少なくとも、わしが生きている間では初めてだ」


 風が吹いた。聖樹の枝が大きく揺れ、木漏れ日の模様が地面の上で踊った。霧が風に散らされて、丘の下の谷が一瞬だけ見渡せた。グリュンハイムの屋根が、小さく光っている。


* * *


 帰り道は、三人とも口数が少なかった。


 丘を下り、温泉街に続く小道に入ったところで、ハンス村長が足を止めた。


「わしは先に戻る。フェリクス、ミーリアさんを送ってくれ」


「……ああ」


 村長の背中が見えなくなるまで、二人は黙って立っていた。杖の音が遠ざかり、霧のなかに消える。


 フェリクスが口を開いた。


「聖樹の精霊が姿を見せるのは、百年に一度あるかないかだ」


 声はいつもの短い調子だったが、ほんの少し掠れていた。


「あの精霊は、大聖女アリーシアの時代から聖樹に宿っていると言われている。アリーシアが最後にこの丘に立ったとき、姿を見せた。それ以降の記録はない」


「百年……」


「お前、何者なんだ」


 フェリクスの問いは、責めるようではなかった。純粋な疑問。そして、わずかな畏れが、声の底に沈んでいた。


 ミーリアは首を横に振った。


「わかりません。わたしにも、何もわかりません。ただ——あの方は、何かを伝えたかったような気がします。まだ、言葉にはならなかったけど」


 フェリクスは黙って頷いた。


 二人は並んで歩いた。霧が足元を流れ、小道の先が白くぼやけている。草を踏む音だけが、静かに響いていた。


 ミーリアの足元で、地面がほのかに光っていた。星脈の微かな脈動が、靴底を通じてかすかに伝わっている。一歩ごとに淡い銀色の光が灯り、次の一歩で消える。


 その光に、二人とも気づいていなかった。

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