第07話 畑仕事と山の風
朝露が薬草の葉に光る時間帯に、ミーリアは畑に出た。
山の端がまだ薄紫に染まっている。空気はひんやりとして、吸い込むと肺の奥まで透き通るようだった。
ロッテが鍬を肩に担いで待っている。
「今日からあんたも本格参加だ。まずは土の手入れから始めな」
「はい、よろしくお願いします」
薬草畑はグリュンハイムの南向きの斜面に広がっていた。日当たりがよく、風通しもいい。聖域山脈から流れ込む霧が適度な湿気をもたらし、薬草の栽培には理想的な環境だった。整然と並んだ畝の間を、テラがのそのそと転がっている。
ミーリアは鍬を握り、土を掘り返す。帝都では触れたこともない道具だった。木の柄がごつごつと手のひらに食い込む。五回ほど振り下ろしただけで、腕がぶるぶると震え始めた。
「あんた、腕の力がてんで足りないね。まあ、慣れだ慣れ」
「す、すみません……。こう、ですか?」
「違う違う。腰で振るんだよ、腰で。腕だけだとすぐにへばる」
ロッテが鍬を取り上げ、手本を見せた。腰の回転で鍬を振り、土がざくりと切れる。力みのない動作。ミーリアは真似をしたが、鍬の先が地面に弾かれて柄が跳ね返ってきた。
「あわわっ」
「はは、最初はそんなもんだ。一週間もすりゃ慣れるよ」
土を掘り返すうちに、日が高くなり、汗が額に滲んできた。ミーリアは手を止めて、掘り返した土を見つめた。黒々とした畑の土。指先で揉むと、さらさらと粒が崩れる。粘りが足りない。
「ロッテさん、この畑の土、少し痩せてきていませんか」
ロッテの鍬が止まった。
「……あんた、よくわかったね。ここ二年ほど、収穫が落ちてきてるんだ。薬草の葉が小さいし、根の張りも弱い」
「土の色が薄い気がします。もっと黒くて、ふかふかしているのがいい土だと……えっと、なんでそう思うのか、自分でもわからないんですけど」
頭の奥で、何かがちらりと光った。堆肥。落ち葉と藁を混ぜて発酵させる。微生物が有機物を分解して、土に栄養を戻す。時間はかかるが、土の力が蘇る——なぜそんなことを知っているのか、ミーリア自身にもわからない。
「あの、堆肥を作ってみてはどうでしょう。落ち葉と枯れ草を積んで、水をかけて、時々切り返して寝かせておくと、栄養のある土になると思います」
「堆肥? あたしは聞いたことないが……」
「えっと、たぶんうまくいくと思うんです。根拠は……その、なんとなくなんですけど」
ロッテは腕を組んでミーリアを見下ろした。日に焼けた顔に、皺が深く刻まれている。それから、にやりと笑った。
「あんたの『なんとなく』は、薬草茶の時も当たったからね。やってみな。材料はあたしが集めてやるから」
午前中いっぱいかけて、畑の端に堆肥の山を作った。落ち葉と枯れ草を交互に積み、井戸から汲んだ水をかける。ミーリアが手順を説明し、ロッテが力仕事を引き受けた。テラが興味深そうに山のまわりをぐるぐる回っている。
「テラさん、これは土のごはんだよ。しばらくしたら、畑に混ぜるの」
〈ごはん。いい匂い〉
テラが堆肥の山にすり寄った。発酵の始まった落ち葉から、ほんのりと甘い匂いが漂っている。
* * *
昼過ぎ、砂利を踏む足音が聞こえた。
フェリクスが山の見回りから降りてきたところだった。深緑の髪に木の葉がひとつ引っかかっている。肩に革の水袋を下げて、額に汗が光っていた。
フェリクスは畑の柵まで来ると、何も言わずにミーリアの前に水袋を差し出した。
「……水。飲め」
「ありがとうございます、フェリクスさん」
冷たい水が喉を通る。山の湧き水だ。甘みがあって、口のなかがすっきりする。ミーリアは水袋を返しながら、フェリクスの髪を指差した。
「あの、葉っぱがついてますよ」
「……ん」
フェリクスが無造作に葉を払い落とし、畑の柵にもたれかかった。腕を組んで、遠くの山を見ている。
フィルが翡翠色の光を明滅させながら飛んできた。ミーリアとフェリクスのあいだをくるくる回って、羽ばたきが速くなる。何かを伝えたがっていた。
〈風、変わった。東の谷、雨〉
短い感覚が、ミーリアの胸に流れ込む。湿った空気の匂い。厚い雲が低く垂れ込める映像。
「えっと——フィルが言うには、東の谷で雨が降りそうみたいです」
フェリクスが目を細めた。風の流れを肌で読み取るように、顔を上げて空気を吸い込んでいる。
「東の谷か。あそこは去年の土砂崩れで地盤が緩い。雨量によっちゃ道が塞がる。見に行ったほうがいいな」
ロッテが鍬を置いて、二人を見比べた。泥のついた手を腰に当てて、にやにやしている。
「あんたたち、いつからそんなに息が合ってるんだい。精霊の声をミーリアが聞いて、フェリクスが判断する。立派な連携じゃないか」
フェリクスが視線を逸らした。
「……別に連携じゃない。こいつがいると、精霊の言葉がわかりやすいだけだ」
「つまり便利ってことでしょ」
ロッテがからかうように言った。フェリクスの眉がぴくりと動いた。
「お前がいると便利だ——いや、便利っていうのは、その」
言葉が途中で止まった。口がもごもごと動いたが、音にならない。フェリクスは口をつぐみ、山のほうを向いた。耳の先が、日焼けした肌の下からわずかに色づいているのが見えた。
「フェリクスさん、照れてますよね?」
言ったのはロッテだった。畑の反対側から、よく通る声で。
「……照れてない。帰る」
フェリクスが柵を乗り越え、山道のほうへ歩き出した。大股の早足。肩が少しだけ強張っている。
「あ、水袋——」
「いい。明日取りに来る」
振り返らずに答えた。背中がぐんぐん遠ざかっていく。
* * *
午後の作業を終えて、道具を片づけているとき、テラが堆肥の山のそばからのそのそと出てきた。
〈あったかい。ここで寝る〉
「テラさん、堆肥がそんなに気に入ったんですか」
テラは返事の代わりに堆肥の山の脇に寄り添って、地面にゆっくり沈み込んだ。目を閉じて、小さな口を開けている。どうやら本気で昼寝するらしい。
「あの精霊、堆肥の発酵熱で寝てるのかい。変わった子だね」
ロッテが呆れたように笑った。
フィルがフェリクスの去った方角から戻ってきて、ミーリアの肩に止まった。翡翠色の光が、いたずらっぽく明滅する。
〈赤い。赤い〉
「赤い? 何が赤いの、フィルさん」
〈耳。赤い〉
「耳? 誰の——」
フィルがフェリクスの去った山道のほうを向いて、羽ばたいた。
ミーリアは首を傾げた。
「フェリクスさんの耳が赤かった、ってこと? 夕日のせいじゃないかな」
〈違う。赤い。面白い〉
フィルが楽しそうに光を散らしながら、いつまでもミーリアの肩の上で跳ねていた。ロッテが畑の向こうで、腹を抱えて笑っているのが見えた。
何がそんなに面白いのか、ミーリアにはさっぱりわからなかった。




