第06話 温泉と精霊の夜
夕暮れの空が茜色に染まるころ、マルタが宿の奥から顔を出した。
「ミーリアちゃん、今日は露天に入らない? 源泉に近いほう、お湯が入れ替わったばかりで最高よ」
薬草畑の作業で土まみれの手を見下ろして、ミーリアは小さく頷いた。爪のあいだにまで黒い土が入り込んでいる。腕の筋肉も、慣れない鍬仕事で張っている。
「あ、はい。ぜひ行きたいです」
グリュンハイムの温泉は、聖域山脈の地熱が生んだ天然の恵みだった。谷間の岩場を削り出した露天風呂は三つあり、一番奥が源泉にもっとも近い。宿から小道を下り、背の高い草むらを抜けると、湯煙が白い帳のように立ちのぼっている場所に出る。
岩壁の隙間から滾々と湧き出す湯は、少し白く濁っていた。底に沈んだ小石が、湯の揺らぎでぼんやりと見え隠れする。
「さあさあ、入って入って」
マルタが先に足を浸し、ほうっと長い息を吐いた。
「はあぁ……やっぱりここが一番。疲れが溶けるわ」
ミーリアが恐る恐る足先を入れた。じんわりと熱い。少しずつ体を沈め、肩まで浸かると、芯から凝り固まったものが解けていくようだった。硫黄の匂いがほのかに鼻をくすぐる。湯面に揺れる自分の髪が、湯煙越しに栗色から金色に見えた。
——あれ。硫黄泉。
頭のどこかで、聞き覚えのある言葉が浮かんだ。泉質、という単語。白い湯花が浮かぶ露天風呂。木の桶と手拭い。竹の柵。なぜか懐かしい風景が、まぶたの裏をかすめて消えた。
「マルタさん、この温泉って、やっぱり体にいいんですよね」
「そりゃあもう。腰の痛いお年寄りが毎朝通ってるわよ。うちの常連のヨーゼフじいさんなんか、杖なしで歩けるようになったの」
「すごい……」
「源泉は特に濃いから、肌荒れにも効くのよ。ミーリアちゃん、畑仕事で手が荒れてきてるでしょ。しばらく浸しておくといいわ」
ミーリアは両手を湯の中に沈めた。湯の底で指先を揺らすと、温もりが手首、肘と染み渡っていく。岩のあいだから湧き出す湯には、微かに光の粒が混じっているように見えた。気のせいだろうか。
そのとき、湯面がぽちゃん、と跳ねた。
「え——」
水滴が宙に浮いている。
青い光をまとった水滴の粒が、ひとつ、ふたつと集まって、手のひらほどの大きさになった。透き通った水の形をした小さな存在。丸い輪郭が光を含んでゆらゆらと揺れ、ミーリアの周りをゆっくり回り始める。
「アクアが出てきた!」
マルタが声を上げた。湯煙のなかで目を見開き、口元を両手で覆っている。
「あの子、人間にはめったに姿を見せないのに——ミーリアちゃん、すごいわ。あたし十年ここにいるけど、お客さんの前に出てきたのは初めてよ」
〈……静か。この人、静か〉
青い光から、穏やかな感情がミーリアの胸に流れ込んできた。怖がっているわけではない。安心している、という感覚に近い。水の底にある深い静けさ。
「えっと……こんばんは、アクアさん」
ミーリアがそっと手を差し出すと、水滴の精霊は指先のすぐそばまで近づいて、ふわりと温度を下げた。熱すぎた湯加減がちょうどよくなる。
「まあ! 湯温を調整してくれてるの?」
「みたいです。ありがとう、アクアさん。気持ちいい」
〈好き。温かい人〉
アクアは湯面を滑るように泳ぎ、源泉のそばまで行くと、青い光を灯したまま静かに回り始めた。源泉を見守っているようだった。
* * *
しばらくして、ざぶん、と派手な音がした。
「ふぃー、今日は畑の草取りで腰がバキバキだよ」
ロッテが湯に身を沈めた。首まで浸かって、大きく息を吐く。タオルを頭に乗せ、岩に背を預けている。
「あら、ロッテさん。いらっしゃい」
「マルタにミーリア、先に入ってたのかい。——おや、アクアまで。珍しいじゃないか」
「ミーリアちゃんが来たら、すうっと出てきたのよ」
「やっぱりね。フィルにテラに続いて、水の精霊まで」
ロッテが目を細めてミーリアを見た。何か言いたそうだったが、湯の温もりに気を取られたのか、そのまま目を閉じた。
三人と一体の精霊が、湯煙のなかに並ぶ。頭上には星がぽつぽつと現れ始め、山の稜線が紫色の空にくっきりと浮かんでいた。虫の声が、遠くからかすかに聞こえる。
「ロッテさん、グリュンハイムって、昔からこんなに精霊が多いんですか?」
「ああ、山の近くだからね。あたしが子どものころは、もっといたよ。聖樹のまわりなんか、夜になると光の粒でいっぱいだった。あたしの婆さんは『星が地面に降りてきたんだよ』って言ってたっけ」
「素敵……」
「でも最近は少し減ったって、村長さんが言ってたわよね」
マルタが首を傾けた。ロッテが湯のなかで腕を組む。
「帝都の連中が山の木を切り出してから、精霊が奥に引っ込んじまったんだ。十年くらい前かね。木材が高騰したとかで、役人が来て伐採許可を出してな」
「そんなことがあったんですね……」
「まあ、ミーリアが来てから、また出てくるようになったけどね。テラなんか畑に居座ってるし、フィルはあんたの肩が定位置だし」
〈温かい。ここ、好き〉
アクアの感情が、穏やかな波のように伝わってくる。ミーリアは目を細めた。湯気で温まった頬が、もうひとつやわらかく緩んだ。
「わたしも、ここが好きです」
「あんた、帝都に帰りたいと思うことはないのかい」
ロッテの問いに、ミーリアは少し考えてから首を横に振った。
「帝都は……きらきらしていて、綺麗な場所でした。でも、息がしづらかった。廊下を歩くだけで、誰かの視線が刺さるような。ここの空気は、やわらかくて」
「そりゃよかった。あんたにはこの谷が合ってるよ」
ロッテの声は、いつもより少しだけやさしかった。マルタが湯の中でミーリアの肩をぽんと叩いた。
「ここにいなさいな。温泉はいつでも入れるわよ」
三人で笑った。アクアが源泉のそばで青い光を揺らした。湯煙と星明かりが混じり合って、世界がぼんやりと光っている。
* * *
湯から上がって体を拭き、髪を整えて宿に戻る道すがら、夜風がひんやりと頬を撫でた。星が増えている。虫の声が近くでも遠くでも鳴いている。草の匂いが夜露に混じって、ひんやりと甘い。
マルタは先に宿に戻り、ロッテは自分の家への道を折れた。ミーリアは一人で小道を歩いていた。
宿の前に、人影があった。
ミーリアは足を止めた。
フェリクスが立っていた。
柵にもたれかかるでもなく、壁に寄りかかるでもなく、宿の前の道のまんなかに、まっすぐ立っていた。
片手に、小さな花束を持って。
山道で摘んだらしい白い花が三本、丁寧に茎を揃えて束ねてある。大きな手で茎の根元を握っているので、花が余計に小さく見えた。葉の切り口がまだ瑞々しい。
「……これ」
フェリクスが花束を差し出した。視線はどこか横を向いている。星明かりの下で、琥珀色の目が光った。
「道端に咲いてた。お前が好きそうだと思った」
「フェリクスさん——」
ミーリアは両手で花束を受け取った。白い花弁が夜風に揺れた。甘い香りがする。山の夜に咲く花だ。名前は知らないけれど、帝都では見たことがない花だった。
「ありがとうございます。綺麗……」
指先が茎に触れた瞬間、白い花弁がほのかに光った。
淡い、銀色の光。
蛍が一瞬だけ灯ったように、花弁の縁が銀色に縁取られて、すぐに消えた。
ミーリアもフェリクスも、その光に気づいた。互いの顔を見た。
「今、光りました……よね?」
「……ああ」
フェリクスの琥珀色の目が、ミーリアの手元から花へ、花からミーリアの瞳へと動いた。口が開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。
「……寝ろ。明日も早い」
背を向けて歩き去る。砂利を踏む音が、夜の静けさのなかでやけに大きく響いた。三歩目で、わずかに首だけ振り返った。ミーリアがまだ立っているのを確認して、今度こそまっすぐ歩いていった。
「おやすみなさい、フェリクスさん」
ミーリアは花束を胸に抱えた。光はもう消えている。けれど指先にはまだ、花を通じて伝わった温もりが残っていた。
フィルが闇のなかから飛んできて、肩に止まった。翡翠色の光が小さく明滅する。
〈光った。花、光った〉
「うん……光ったね。なんでだろう」
〈わからない。でも綺麗〉
白い花弁を見つめる。三本の花は、もう光っていない。ただの山の花だ。なぜ光ったのか、わからない。
けれど胸の奥が、温泉に浸かったときとはまた違う熱さで、じんわりと温かかった。フェリクスの不器用な声が、まだ耳のどこかに残っている。
——お前が好きそうだと思った。
ミーリアは花の香りを吸い込んで、宿の扉を開けた。




