第05話 薬草茶の奇跡
朝靄の中を、マルタが走ってきた。
息を切らしている。エプロンの裾を掴んだまま坂道を駆け上がり、薬草畑の入口で膝に手をついた。頬が赤い。走り慣れていない人の息の上がり方だった。
「ロッテ! 大変、村で風邪が広がってる!」
「風邪? この時期にかい」
ロッテが鎌を置いて振り返る。朝の薬草畑で雑草を刈っていたところだった。マルタは頷きながら額の汗を拭った。
「昨日から三人。今朝になって五人に増えた。熱が高くて、咳も酷いの。うちの宿の客も一人やられたわ」
「薬草の煎じ薬を出しな。解熱草の根を——」
「もう試した! ハンス村長が昨夜のうちに配ったんだけど、効かないのよ。いつもの風邪と違う型みたい」
ロッテの眉間に皺が寄った。手に持った鎌を地面に突き刺す。
ミーリアは畝の向こうで二人の会話を聞いていた。薬草の手入れをしていた手が止まっている。
「あの、ロッテさん」
「なんだい」
「その風邪、咳と高熱が主な症状ですか? 鼻水はあまり出ないタイプの」
マルタが頷いた。
「そうなの。熱が三十九度を超えてるのに鼻は詰まってなくて、咳だけが止まらない」
ロッテが「よくわかるね」と眉を上げる。
「えっと、もしそうなら……この葉と、あの段の白い根と、畑の端に生えている黄色い花。三つを三対一対二の比率で混ぜて、弱火で煎じると——」
口が止まった。
なぜこんなことを知っているのだろう。薬草の名前はグリュンハイムの呼び名すら覚えていないのに、配合比率と煎じ方だけが手の中にある。
指が覚えている。この手は何百回も同じ作業を繰り返してきた。ここではないどこかで。白衣を着た誰かの手が、乳鉢を回し、秤を読み、温度計を確かめていた。
「——たぶん、こうすると効果が上がるはずです」
ロッテがミーリアの顔をじっと見た。視線が鋭い。
「根拠は?」
「わかりません。でも、手が覚えてるんです。この三つを混ぜればいいって、体がわかるんです」
沈黙が落ちた。マルタが不安そうにロッテとミーリアを交互に見る。朝霧の中で、フィルが遠くから翡翠色に光っているのが見えた。
ロッテが口を開いた。
「やってみな」
* * *
ミーリアは薬草畑を駆け回った。
まず三段目の畝から解熱草の葉を摘む。朝露に濡れた葉を丁寧に選り分け、虫食いのあるものを除ける。次に五段目の白い根。土を掘り返し、根を傷つけないように引き抜く。爪の間に土が詰まった。最後に畑の端の黄色い花。花弁だけを使う。茎は苦味が強すぎて邪魔になる。
なぜ知っているのか、わからない。でも手が迷わない。
ロッテの小屋に持ち込む。乳鉢で葉を潰し、根を細かく刻み、花弁を丁寧にほぐす。竈に鍋を載せ、水を沸かし、三種を順番に投入する。
「まず葉を入れて、煮立ったら弱火に。根は三分後。花は最後に、火を止めてから」
手が迷わない。配合を量る必要もなかった。指先が分量を知っている。三対一対二。この比率が正しい。乳鉢の回し方も、刻む角度も、体が覚えている。
ロッテが横で腕を組んだまま見ている。口は出さない。ただ、目が鋭い。職人が別の職人の腕を見極めるときの目だ。
煎じている間に匂いが変わっていった。最初は草の青臭さ。次に甘みが出てくる。根が溶け始めると、奥行きのある香りに変わる。最後に火を止めて花弁を入れると、柑橘に似た爽やかさが加わった。小屋の中に琥珀色の蒸気が漂う。
十五分後、鍋の中身が淡い琥珀色に変わった。
「できました。これを冷まして飲んでもらえれば」
「あたしが先に試す」
ロッテが椀によそい、一口含んだ。目を閉じ、喉を鳴らす。口の中で転がすように味わっている。舌の上で成分を確かめる仕草。三十年の経験がそうさせるのだろう。
「……悪くないね。むしろ旨い。体の芯がじんわり温まる」
ロッテがもう一口飲む。
「花弁が最後ってのがいいね。煮すぎると香りが飛ぶが、余熱だけで抽出してる。考えたね」
「あ、いえ、考えたというか、自然に……」
「まあいい。これは効くかもしれない」
「本当ですか?」
「あたしの舌を信じな。三十年薬草をやってきた舌だよ」
ロッテの言葉に背中を押され、ミーリアは薬草茶を大鍋いっぱいに作った。竈の火を調整しながら、同じ手順を繰り返す。二鍋目。三鍋目。分量が増えても配合は変わらない。手が覚えている。
マルタが竹の水筒に詰めて村中に配り歩く。
「八人分、足りるかしら」
「足りなかったら追加で作ります」
* * *
翌朝、マルタが宿の階段を駆け上がってきた。
「ミーリアちゃん! 熱が引いてる! 全員!」
「え、全員ですか?」
「昨日の八人、今朝には全員平熱よ! 咳も止まってる! 老人のグスタフおじいちゃんまで起き上がって朝の散歩に出たって!」
マルタに腕を引かれて村の広場に連れ出された。昨日まで寝込んでいた人たちが外に出ている。顔色がいい。子供が走り回っている。老人が伸びをしている。井戸端で水を汲む女性が、昨日まで寝台から起き上がれなかった隣人と笑い合っている。
「聖女さまだ」
誰かが言った。
「聖女さまが風邪を治してくれた」
「一晩で全員回復するなんて、奇跡だ」
「ミーリアさんの薬草茶だって? すごいなあ」
声が広がっていく。広場に集まった村人たちの視線が、ミーリアに集中した。好意と感謝と驚きが混ざった目。帝都で向けられた冷たい視線とは正反対の温度。
「え、えっと、わたし聖女じゃないです」
ミーリアは両手を振った。頬が熱い。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
「ただの薬草茶で……ロッテさんの畑の薬草がよかっただけで、わたしは混ぜただけですから」
「何言ってんだい。配合を考えたのはあんただろう」
いつの間にか隣にいたロッテが、ミーリアの背中をばんと叩いた。小さな体がよろめくほどの力だ。
「三十年この畑をやってきたあたしが知らない配合だ。薬草師としちゃ一人前だよ。あたしの畑の薬草を、あたしより上手く使いやがって」
ロッテの声はぶっきらぼうだったが、口元が緩んでいる。目尻に皺が寄って、それが笑っている証拠だった。ミーリアは目が潤みそうになるのを堪えた。胸の奥がじわりと温かい。鼻の奥がつんとする。
「ありがとうございます」
ミーリアが深く頭を下げると、村人たちから拍手が湧いた。まばらに始まった拍手が、広場全体に広がっていく。
* * *
広場の喧騒から離れた畑の縁に、フェリクスが立っていた。
腕を組み、木の幹に背を預けている。革の外套の襟を立て、琥珀色の瞳が広場で村人に囲まれるミーリアを遠くから見ていた。口元は真一文字だが、目だけがミーリアを追っている。
肩にフィルが止まっている。翡翠色の蝶が羽をゆっくり開閉させ、何かを伝えるように光った。
「こいつの力、お前にはわかるのか」
フェリクスが低い声で問う。精霊の番人として生きてきた男の問いだ。精霊が人間を評することの重みを、この男は知っている。
フィルの光が強くなった。
〈温かい。この人、温かい〉
短い言葉だった。感情が直に流れ込んでくる。陽だまりのような温もり。土の匂い。草の青さ。精霊が人間をこう評することは滅多にない。フェリクスは精霊の番人として二十年以上生きてきたが、フィルがこれほど明確に「温かい」と伝えたのは初めてだった。
フェリクスの指が、組んだ腕の中で微かに動いた。
木の幹から背を離し、畑の方に歩き出す。
ミーリアは村人への挨拶を終え、薬草畑に戻ろうとしていた。ロッテと並んで坂道を上る途中で、上から降りてくるフェリクスと鉢合わせた。
「あ、フェリクスさん」
「……」
フェリクスは一瞬だけ目を逸らした。それから顎を引いて、ミーリアの顔を見た。
「薬草は好きか」
「え?」
唐突な問いだった。昨日までろくに口を利かなかった人が、自分から話しかけてきた。
ミーリアは目を瞬かせ、それから笑った。
「はい。好きです。この畑の薬草、全部好きです。触ると、なんだか体の中が温かくなるんです」
フェリクスは何も答えなかった。
ただ、視線が一瞬だけ柔らかくなった。琥珀色の瞳の奥で、硬い何かが微かに緩む。それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻る。
「そうか」
一言だけ残して、フェリクスは坂道を下りていった。
ロッテが腕を組んでその背中を見送る。
「へえ。あの朴念仁が自分から話しかけるなんてね」
「え? 珍しいことなんですか?」
「珍しいどころか、あたしの記憶じゃ初めてだよ。あの男が誰かに自分から声をかけたのは」
フィルがミーリアの肩に戻ってきた。翡翠色の光がゆるやかに明滅している。穏やかな温もりが肩から胸に伝わってくる。
ミーリアは坂の下を見た。
フェリクスの背中が、朝霧の中に消えていくところだった。




