第73話 帝都からの逃亡者
その少女は、泥だらけだった。
グリュンハイムの入口に立っていた。門番のヤコブが声を上げ、フェリクスが駆けつけた時には、少女は石畳の上に崩れ落ちていた。
「おい、しっかりしろ」
フェリクスが少女の肩を支えた。十五、六歳。藍色の旅装は裾が泥に汚れ、右の袖が破れている。靴底がすり減り、足首に豆が潰れた跡があった。帝都から歩いてきたのだ。馬車も使わず。
「水……お水を……」
「ヤコブ、水を持ってこい」
ヤコブが走った。フェリクスは少女を門番小屋の椅子に座らせた。少女の手が震えている。爪の間に泥が詰まり、指先が赤く腫れていた。
ミーリアが薬草園から駆けつけた。ロッテに「入口で誰か倒れた」と聞いて走ってきたのだ。
「フェリクスさん、この方は——」
「帝都の人間だ。服装でわかる」
少女が顔を上げた。日に焼けて頬が赤い。けれど肌の白さは隠せない。帝都の貴族に仕える者の肌だった。
ミーリアの顔を見て、少女の目が大きくなった。
「あなたが……追放された聖女候補」
ミーリアは少女の手を取った。冷たい。
「今はそんなことより、まずお水を飲んでください」
ヤコブが水瓶を持ってきた。ミーリアが杯に水を注ぎ、少女の唇に当てた。少女が小さな音を立てて水を飲んだ。三杯飲んで、ようやく呼吸が落ち着いた。
「名前を教えてもらえますか」
「エルゼ……と申します。エーデルシュタイン家に仕える……クラリッサ様の侍女でした」
エーデルシュタイン。クラリッサの家名を聞いて、フェリクスの目が細くなった。ミーリアはフェリクスの方を見て、小さく首を振った。
「エルゼさん、どうしてグリュンハイムに」
「帝都にいられなくなりました」
エルゼの声が掠れた。
「聖女様の——クラリッサ様の偽装が露呈して、帝都は大騒ぎです」
「エーデルシュタイン家の関係者というだけで石を投げられます。わたしはただの侍女なのに、『偽聖女の手先』だと」
エルゼの手が膝の上で握りしめられた。指の関節が白い。
「逃げるしかなかった。行く場所がなくて……辺境なら、と」
ミーリアはエルゼの手を両手で包んだ。
「ここにいていいです。誰も追い出しません」
* * *
マルタの温泉宿にエルゼを連れていった。
マルタが「まあまあ、ボロボロじゃないの」と手際よく湯を用意した。ロッテが着替えの服を持ってきた。ミーリアが傷薬の軟膏を塗り、足の豆に包帯を巻いた。
エルゼは温泉に浸かった後、食堂のテーブルで粥を食べた。三杯食べた。
「ごめんなさい……こんなに食べて」
「気にしないで。おかわりもありますよ」
「もう……大丈夫です」
エルゼが匙を置いた。目の下の隈が濃い。何日も眠れていないのだろう。
ミーリアはエルゼの向かいに座った。フェリクスは食堂の入口に立ち、腕を組んで壁に背を預けている。
「少し落ち着きましたか」
「はい。ありがとうございます。帝都では悪い噂ばかり聞いていました」
「追放された聖女候補は辺境で野垂れ死んだとか、精霊に取り憑かれて気が触れたとか。でも全然——全然違う」
エルゼがミーリアを見つめた。
「あなたのこと、クラリッサ様は『偽聖女』と呼んでいました。でも、あの方の部屋を毎朝片づけたのは、わたしです」
エルゼが杯の縁を指でなぞった。
「祈りの時間に、あの方が跪いたところを、わたしは一度も見ていません」
ミーリアは卓の軟膏の缶に蓋をした。巻き余りの包帯と一緒に薬袋へ入れ、留め紐を二度結んだ。
「エルゼさん。クラリッサさんのこと、教えてもらえますか」
エルゼが頷いた。
「朝と夜、お部屋に盆を運びました。扉の外に衛兵が二人立っています。わたしが入る時だけ、開きます」
エルゼの指が卓の木目を辿った。
「下げる時、粥はそのままです。匙の位置も、置いた時のままでした」
「……お部屋からは」
「一度も出ておられません。夜中に、扉の内側で物が落ちる音がしました」
ミーリアは黙って聞いた。
エルゼが旅装の内側から、布に包んだものを出した。銀の襟留めだ。青い石が嵌まっている。
「エーデルシュタイン家の紋です。屋敷を出る前に、外せと言われました」
エルゼは襟留めを卓に置き、指で押して自分から遠ざけた。
「家の者は、もうクラリッサ様の名を口にしません。姉上のフローラ様とディートリヒ様の婚約も、ヴァレンシュタイン家の失脚で危うくなって」
「……あのお部屋に通っていたのは」
「最後は、わたしだけでした」
フェリクスが低い声で言った。
「自業自得だろう。ミーリアを追放した張本人だ」
「フェリクスさん」
ミーリアがフェリクスを見た。フェリクスは口を閉じたが、目は険しいままだった。
「クラリッサさんも……苦しんでいるんですね」
ミーリアは杯の水面を見つめた。揺れる水に、自分の顔が映っている。
帝都を追放された夜を思い出す。回廊の冷たい石の床。涙。誰もいない暗がり。クラリッサの冷たい声が耳に残っている。『光属性B級の小娘が聖女を名乗るなど、ローゼンクロイツ家の恥ですわ』。
ミーリアは杯を卓に戻した。指先で縁を回し、向きを直した。
「エルゼさん。もう少し聞いてもいいですか」
「はい」
「クラリッサさんは、これからどうするつもりなんでしょう」
エルゼの顔が曇った。
「それが……わたしが帝都を出る前日、クラリッサ様が仰っていたんです」
エルゼは杯の水を一口飲み、言葉を選ぶように間を置いた。
「『辺境の聖女に助けを求めに行く』と」
ミーリアは目を見開いた。
「止めたんです。こんな状態で旅なんて無理だと。護衛もいない、馬車もない」
「でもクラリッサ様は聞き入れてくれませんでした。『もうここには何も残っていない。あの娘のところに行く』と」
食堂が静まった。フェリクスが壁から背を離した。
「いつ帝都を出たんだ」
「わかりません。わたしが先に出ましたから。でも……クラリッサ様の性格からして、言ったことは実行します。もう帝都を出ているかもしれません」
ミーリアは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。木の梁に、温泉の湯気が染みついた跡がある。
クラリッサがここに来る。
自分を追放した人が、助けを求めてここに来る。
「ミーリア。どうする」
フェリクスは腕を組んだまま動かない。壁際から、ミーリアだけを見ていた。
「受け入れます。当然です」
ミーリアは真っ直ぐにフェリクスを見た。
「助けを求めて逃げてきた人を、追い返さない。それがこの村のやり方でしょう。ハンス村長がわたしを受け入れてくれた時と、同じです」
フェリクスは組んでいた腕を下ろし、食堂の入口から表の街道へ目をやった。それから小さく顎を引いた。
エルゼがミーリアを見つめていた。口が半ば開いている。
「あなたは……本当に、あの方を受け入れるんですか。あなたを追放した方を」
「ええ。だって、わたしも一人で泣いていた時に、手を差し伸べてもらったから」
エルゼが卓の襟留めに目を落とした。
「お気をつけください。クラリッサ様は追い詰められると何をするかわかりません」
「わかりました」
「でも……今のクラリッサ様は、わたしが知っている方とは別人のように壊れています」
ミーリアは襟留めを布に包み直し、エルゼの手に戻した。エルゼが両手で握った。
「フェリクスさん。門番の交替のとき、街道の先まで見てもらえますか」
「もう言ってある」
外の街道から、荷車が石を踏む音がした。ミーリアは戸口の方を見た。音は村の中へ入り、遠ざかっていった。




