第70話 帝都の崩壊劇
帝都イグナシオン、星神大神殿。
白大理石の円柱が並ぶ祈りの大広間に、三百を超える貴族が集まっていた。帝国聖女クラリッサ・エーデルシュタインによる「大浄化の儀」。封印劣化に怯える帝都の民を鎮めるため、皇帝自らが命じた特別儀式だった。
クラリッサは祭壇の前に立っていた。
聖衣の白い布地が足元に広がり、金糸の刺繍が蝋燭の光を反射している。正面の席には皇帝レオハルト三世。その両隣に五大公爵家の当主たちが並ぶ。
見られている。
三百の視線がクラリッサの背中に突き刺さっていた。最前列のシュヴァルツベルク公爵が腕を組み、隣のグリフォンハート公爵夫人が扇子の陰で何かを囁いている。味方はいない。エーデルシュタイン家の席は空だった。姉フローラの婚約者であるディートリヒが失脚して以来、一族は宮廷から姿を消している。
胸元の聖衣の下で、聖光の器が微かに振動していた。不規則な脈動。技術者が引き上げられてから、出力の安定が効かない。昨夜の試験では三回に一回、光が途切れた。
大丈夫。今日は大丈夫。わたくしは帝国聖女。この場で光を放てなければ——全てが終わる。指先が冷たい。聖衣の下の背中に汗が伝い、腰のあたりで止まった。
「聖女様、お始めください」
神官長の声が大広間に反響した。
クラリッサは両手を祭壇に置いた。核紋に力を込める。光属性A級の出力を、聖光の器でS級に増幅する。いつも通り。何百回と繰り返した手順。
光が灯った。
祭壇を中心に、金色の光が放射状に広がる。大広間の天井に届き、ステンドグラスを透過して外に漏れた。帝都の市民が神殿を見上げ、歓声を上げた。
まだ足りない。
クラリッサは核紋にさらに力を注いだ。聖光の器が唸る。胸元が熱い。出力を上げろ。もっと。S級の輝きを見せろ。民が見ている。皇帝が見ている。
光が膨らんだ。
膨らみすぎた。
異変は一瞬だった。
聖光の器が痙攣した。出力が急激に跳ね上がり、制御の閾値を超えた。クラリッサの手が祭壇から弾かれ、光が暴走した。
金色の光が白に変わり、白が灼熱の輝きに変わった。制御を失った聖光が大広間を満たし、天井の石材にひび割れが走った。ステンドグラスが砕けて破片が降り注ぎ、円柱の表面が焦げた。
「きゃあっ!」
「何が起きた!」
貴族たちが席から立ち上がり、悲鳴を上げた。護衛の騎士たちが剣を抜き、皇帝の前に壁を作る。
クラリッサは祭壇の前で膝をついていた。
制御できない。聖光の器が暴れている。止められない。出力を下げようとしても、器がクラリッサの意志を無視して光を吐き続けている。
「止まれ……止まりなさい!」
叫んだ。手で胸元を押さえた。聖光の器を押し込もうとした。
光が弾けた。
聖衣の胸元が裂けた。金糸の刺繍が焼け焦げ、白い布地が左右に開いた。
その下から、金属の光沢を持つ小さな器が露出した。
聖光の器。
菱形の魔導具が胸元に埋め込まれ、暴走する光を放ち続けている。その光はもう金色ではなかった。赤と白が交互に明滅し、金属の表面にひび割れが走っている。
大広間が静まり返った。
三百の視線が、クラリッサの胸元に集中した。
「あれは——」
「魔導具だ」
「聖女の力が——魔導具で偽装されていた?」
囁きが広がった。波紋のように。ざわめきが大きくなり、やがて怒号に変わった。
「偽聖女だ!」
「エーデルシュタイン家の魔導具じゃないか!」
「帝国聖女の座が——偽りだったのか!」
クラリッサは祭壇にすがりついた。膝が笑い、立てなかった。聖光の器からの光が弱まっていく。A級の出力。B級。C級。光がどんどん小さくなり、最後の一瞬、ロウソクの火のように揺れて——消えた。
沈黙。
蝋燭の炎が揺れる音だけが大広間を支配した。砕けたステンドグラスの破片が床で色を散らしている。崩れた天井の石片から埃が降り注ぎ、光の柱を描いていた。
消えた光の後に残ったのは、ひび割れた魔導具と、聖衣を乱したクラリッサの姿だけだった。
神官長が祭壇に駆け寄った。
「聖女様、これは一体——」
「違う……違います。わたくしは聖女です。これは、ただの補助具で——」
「聖光の儀でのS級認定が、魔導具による偽装だったと?」
「わたくしは——これは——」
クラリッサの声が掠れた。弁明が喉につかえ、出てこない。口が開くのに言葉が出ない。周囲の視線が肌を焼くように痛かった。貴族たちの顔に浮かぶのは驚愕、軽蔑、そして——「やはり」という確信。
皇帝レオハルト三世が席から立った。冷徹な視線がクラリッサを射抜いた。何も言わなかった。一言も。ただ立ち上がり、護衛に囲まれて大広間から去った。
その沈黙が、すべてを語っていた。
* * *
私室。
クラリッサは化粧台の前に座っていた。
鏡の中の顔は、もう聖女ではなかった。化粧が崩れ、涙の跡が頬に筋を作っている。聖衣は脱ぎ捨てられ、床の上で皺くちゃに丸まっていた。胸元のひび割れた聖光の器だけが、まだクラリッサの体に残っている。手の中に器を握りしめ、何度も力を込めた。光れ。光りなさい。わたくしは聖女なのだから。
光らなかった。
指先が白くなるほど握り込んでも、器は冷たい金属の塊でしかなかった。
扉の向こうから侍女たちのひそひそ声が聞こえた。
「偽聖女ですって……」
「エーデルシュタイン家が魔導具で……」
「クラリッサ様、もう終わりね……」
クラリッサの手から聖光の器が滑り落ちた。化粧台の上で乾いた音を立て、転がった。
鏡の中の自分を見た。目が赤い。唇が震えている。髪が乱れ、頬に涙の跡がある。これが帝国聖女の姿だと、誰が信じるだろう。
「嘘よ……」
声が裂けた。
「嘘。わたくしは聖女……わたくしが帝国の聖女……」
声が震え、最後は呻きに変わった。膝の上で握った拳が、自分の太ももを叩いた。何度も。何度も。爪が掌に食い込み、赤い三日月が刻まれた。
扉の外に護衛騎士の靴音が聞こえた。交代の合図。だが誰も入ってこない。誰も声をかけない。大広間で起きたことは、もう宮殿中に広まっているはずだった。明日には帝都中に。一週間後には大陸中に。
窓の外で帝都の夜が深まっていく。大神殿の塔からは光が消えていた。聖女の光が灯らない大神殿を、帝都の民が不安そうに見上げていた。
化粧台の上で、聖光の器が横たわっていた。
ひび割れた表面に、蝋燭の光が映り込んでいる。弱い、揺れる光。それだけだった。
クラリッサの手が伸び、器を掴み、もう一度握りしめた。
光らなかった。
もう二度と、光らなかった。




