第69話 封印の悲鳴
聖域山脈から降りたのは、夕暮れだった。
グリュンハイムの灯りが見え始めた時、大地が震えた。前回の地震とは違う。地面そのものが痙攣するような、短く鋭い振動が断続的に走った。
フェリクスが足を止めた。
「来たか」
谷を越えた先の草原に、亀裂が走った。黒紫の瘴気が噴き出し、夕暮れの空気を汚していく。一つではない。左の丘にも、右の森の縁にも。裂け目が同時に三つ、大地に口を開けた。
「三つ同時……」
グリュンハイムの方角から声が聞こえた。村人たちの叫び声。子供の泣き声。瓦が落ちる音。地震とは違う。大地そのものが悲鳴を上げているような振動が、足の裏から脛を伝って腰まで登ってくる。
ミーリアは背嚢からヒカリグサの革袋を取り出した。手が震えている。裂け目修復で削った寿命の分だけ、体の底が薄くなっている。白い筋が増えるかもしれない。それでも三つの裂け目から瘴気が広がれば、グリュンハイムの畑も温泉も聖樹も——全てが枯れる。
「ヒカリグサを使います」
「量は足りるのか」
「三株分だけ。残りは調合用に取っておかないと」
ミーリアはヒカリグサの葉を三枚千切り、口に含んだ。苦い。草の汁が舌の上に広がり、喉を通って体の芯に沁みていく。
変化は即座に来た。
体の中を流れる星脈の回路が澄んだ。濁っていた流れが透明になり、核紋との接続が滑らかになる。白い筋が走ったこめかみの鈍痛が消えた。負荷の閾値が上がった——同じ出力でも消耗が軽い。
「効いてます。行きます」
走った。最も近い裂け目に向かって。
「ミーリア! 俺が先だ!」
フェリクスが追い越し、裂け目の縁で風属性の壁を展開した。瘴気が壁に当たって左右に散る。ミーリアが裂け目に到達するための道を作っている。
ミーリアは裂け目の前に膝をついた。
両手を地面に押しつけた。
白銀の光が走った。瞳が染まり、光の脈が裂け目を覆っていく。ヒカリグサの効果が体の中で働いている。昨日のような、時間が流出していく感覚がない。消耗は確かにあるが、底が抜けるほどではなかった。
一つ目の裂け目が閉じた。亀裂の跡に苔が這い、瘴気が消えた大地から草の匂いが戻ってくる。
ミーリアは立ち上がった。膝が笑っていたが、踏ん張った。ヒカリグサの効果が体を支えている。いつもなら意識が飛ぶはずの消耗が、痺れ程度に留まっている。
「次。北の丘」
フェリクスが叫んだ。ミーリアは立ち上がり、走った。フェリクスが横に並び、走りながらミーリアの腕を掴んでいる。倒れないように。
北の丘の裂け目は一つ目より大きかった。幅が五メートルはある。瘴気が濃く、丘の草が半分枯れている。
フェリクスが地属性を使った。裂け目の縁の岩盤を操り、亀裂の幅を物理的に狭める。風属性で瘴気を上空に逃がしながら、ミーリアが星脈共鳴を流し込む隙間を作った。
「今だ!」
ミーリアが手を当てた。白銀の光が裂け目に注ぎ込まれ、狭まった亀裂が塞がっていく。大地が軋み、石がぶつかり合う音が響いた。
二つ目が閉じた。
ミーリアの膝が震えた。ヒカリグサの効果があっても、二つの裂け目を連続で塞いだ消耗は大きい。視界の端が白く滲んでいる。口の中にヒカリグサの苦みが残り、舌が痺れていた。
フェリクスがミーリアの顔を覗き込んだ。汗が額を伝い、顎から落ちている。風属性と地属性を同時に使い続けた彼もまた、限界が近かった。
「顔色が悪い。ここで止めてもいい」
「止めたら村が——」
「お前が倒れても村は困る」
「最後だ。森の縁。行けるか」
フェリクスの声には命令ではなく、問いかけがあった。
「行けます」
走った。森の縁まで。フェリクスがミーリアの手を引き、精霊たちが周囲を飛び交う。フィルが先行して裂け目の位置を示し、テラが地面の下からミーリアの足元を支えた。
〈頑張って。あと少し〉
テラの声が足の裏から響いた。のんびり屋の地の精霊が、初めて必死な声を出している。
三つ目の裂け目。
ミーリアは最後の力を込めて両手を地面に叩きつけた。白銀の光が爆発的に広がり、裂け目を包んだ。瘴気が白銀の粒子に変わり、夕暮れの空に散っていく。
亀裂が閉じた。
静寂が降りた。
ミーリアの腕から力が抜けた。前に倒れかけた体をフェリクスが受け止めた。背中に回された腕が強く、温かかった。
「よくやった」
フェリクスの声が耳元で聞こえた。
「まだ……立てます」
「立たなくていい」
村人たちが駆けつけてきた。松明を持った者、毛布を抱えた者。ハンス村長が先頭に立ち、ミーリアの顔を覗き込んだ。
「ミーリアさん。三つとも塞いだのか」
「はい……なんとか」
「聖女様——いえ、ミーリアちゃん。もう無理しないでくれ。あんたが倒れたら、この村はどうなる」
ロッテが毛布をミーリアの肩にかけた。
「馬鹿だね、あんたは。帰ってきたばかりで三つも塞ぐなんて」
「ロッテおばさん……ヒカリグサ、効きました。あれがなかったら、もっと——」
「わかってるよ。だからこそ、ちゃんと調合して長く使えるようにしないとね」
マルタが温かい薬草茶を持ってきた。ミーリアはフェリクスに支えられたまま、一口ずつ飲んだ。温かさが喉を通り、体の隅々に広がっていく。
村人たちがミーリアを囲んでいた。子供が花を差し出し、老人が手を合わせ、若者が涙を拭いている。
ミーリアは笑った。今度は笑えた。口元がちゃんと動いて、頬が持ち上がった。目の端に涙が溜まっていたが、零れる前に笑顔が追いついた。
「みなさん、大丈夫です。わたし、大丈夫ですから」
ハンス村長が松明を掲げて村人たちを落ち着かせていた。
「裂け目は全て塞がった。建物の確認を始めてくれ。怪我人はロッテのところへ」
村人たちが動き出す。恐る恐るだったが、ミーリアの笑顔を見て足取りが確かになっていった。
フェリクスがミーリアを抱え上げた。
「宿に運ぶ。歩かなくていい」
「あ、フェリクスさん、自分で歩けま——」
「黙れ」
村人たちの間を抜けて、フェリクスがミーリアを宿へ運んでいく。ミーリアはフェリクスの腕の中で観念した。
空を見上げた。
星が出始めている。いつもの穏やかなグリュンハイムの夜空。けれど聖域山脈の方角だけが、星の光を飲み込むように暗かった。
「フェリクスさん」
「何だ」
「封印が——悲鳴を上げています。聖域山脈の中心で、何かが崩れかけている」
フェリクスは足を止めなかった。ミーリアを抱えたまま、山の稜線を見た。
「ああ。俺にも聞こえる。精霊たちが——泣いている」
ミーリアの瞳に、白銀の光が宿り続けていた。金色に戻らない。星脈との共鳴が解けないまま、聖域山脈の悲鳴を受信し続けている。
大地の下で、百年前の封印が砕けかけていた。




