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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第67話 寿命の代償

マルタの温泉宿に戻ったミーリアは、部屋の鏡の前に座った。


 ロッテの薬湯を飲み、温泉に浸かり、半日眠って体は動くようになった。指先の感覚も戻り、立ち上がっても目眩はしない。


 けれど鏡に映った自分を見て、ミーリアの手が止まった。


 左のこめかみから一筋、白い線が走っている。栗色の髪に紛れていなければ見落とすかもしれない細さだったが、指で分ければはっきりとわかった。根元から毛先まで、一本残らず色が抜けている。


 フィルが鏡の縁に止まり、翡翠の光を弱々しく灯していた。


「大丈夫ですよ、フィルさん。ほら、一筋だけです」


〈嘘。怖い〉


 ミーリアは鏡に映った自分に微笑んでみせた。瞳は金色に戻っている。顔色も悪くない。ただ、体の奥にあったはずの何かが薄くなっている。水瓶の底が一段下がったような、そういう感覚だった。


 扉を叩く音がした。


「ミーリア。入るぞ」


 フェリクスだった。返事を待たずに入ってきて、ミーリアの前に椅子を引き寄せて座った。距離が近い。膝と膝が触れそうだった。手には水筒を持っている。ミーリアの前に置き、「飲め」と一言だけ言った。


 ミーリアが水筒に手を伸ばした時、フェリクスの視線が止まった。


 琥珀色の目がミーリアの髪を見つめている。白い筋のある左のこめかみから目が離せないようだった。水筒を受け取るミーリアの手も見ていない。ただ、あの白い一筋だけを。


「ロッテに診てもらった」


「はい」


「核紋の出力は正常だと。体も異常なし。ただ——」


「寿命が、少し減った。そうですよね」


 フェリクスの顎が強張った。


「少しじゃない。わからないのか。お前の髪が白くなった。それがどういう意味か」


「わかっています」


「わかってない。お前はいつもそうだ。自分のことになると鈍い」


 ミーリアは口を閉じた。フェリクスの声が低く、硬い。怒っているのではない。怒りよりもっと深い場所で、何かが軋んでいる。


 フェリクスの手が、自分の膝を強く掴んでいた。指が白くなるほどの力。ミーリアの白い筋を見てからずっと、あの手は何かを掴んでいないと落ち着かないようだった。


 沈黙が落ちた。


 窓の外で夕暮れの虫が鳴いている。温泉の湯煙がオレンジ色に染まり、宿の壁に影を落としていた。階段の軋む音がして、マルタが夕食を運んでいる気配がした。けれど二人の部屋の前で足音は止まり、そのまま通り過ぎていった。空気を読んだのだろう。


 フェリクスが口を開いた。いつもの短い言葉ではなかった。


「——お前が死んだら、俺はどうすればいい」


 声が掠れていた。


「山守として精霊に仕えて、一人で生きていくのか。それはもう——」


 言葉が途切れた。フェリクスの手が膝の上で拳を握り、指の関節が白くなっていた。


「できない」


 一語だった。それ以上は出てこなかった。


 ミーリアの胸が詰まった。


 フェリクスの横顔を見た。顎の線が硬く、唇が引き結ばれている。けれど目だけが揺れていた。琥珀色の瞳の奥に、ミーリアが初めて見るものがあった。


 手を伸ばした。


 フェリクスの拳の上に、自分の掌を重ねた。


「死にません」


 声が震えそうになった。唇を噛んで堪えた。


「フェリクスさん。死にませんから。わたし、あなたを一人にしたりしません」


 フェリクスの拳がほどけた。指が開き、ミーリアの手を下から包んだ。大きな手。硬い皮膚。薬草園で水を運び、山道で岩を掴む手。その手が、微かに震えていた。


「だから——一緒に方法を見つけましょう。星脈共鳴の負荷を減らす方法を。わたし一人で抱え込まないって、約束します」


「……約束だぞ」


「はい」


「破ったら許さない」


「はい。破りません」


 フェリクスの手の力が強くなった。痛いほどだった。でもミーリアはそのまま手を預けた。


 窓の外で、最後の夕日が山の稜線に沈んだ。部屋の中が暗くなり、フィルの翡翠の光だけが二人の手元を照らしていた。


〈温かい。二人。温かい〉


 フィルが小さく光って、窓の方に飛んでいった。二人きりにしてくれたのだと、ミーリアは後から気づいた。


 暗くなった部屋で、二人はしばらく手を握ったまま動かなかった。階下でマルタが食器を片付ける音が聞こえる。風が窓枠を鳴らした。温泉の硫黄の匂いが微かに漂っている。


 フェリクスの親指が、ミーリアの手の甲をゆっくり撫でた。おそらく無意識の動作だった。


「フェリクスさん」


「……何だ」


「明日の朝、一緒にロッテおばさんのところに行きましょう。何か方法があるはずです」


「ああ」


 短い返事だった。けれどその声は、さっきまでの硬さが消えていた。


* * *


 翌朝。


 ロッテおばさんが薬草園の作業小屋にやってきた。脇に分厚い革装丁の本を抱えている。表紙が黄ばみ、背表紙の金文字が半分剥げていた。


「昨日から棚をひっくり返して探してたんだよ。あたしの祖母が書き写した薬草録の写本」


 小屋の中に埃っぽい紙の匂いが広がった。棚の上に積まれた別の本が崩れかけている。ロッテが一晩中探し続けた跡が残っていた。


 ミーリアとフェリクスが作業台の前に並んだ。ロッテが本を開き、付箋の貼られたページを示した。


「これだよ。ヒカリグサ」


 黄ばんだ紙の上に、細密な植物画が描かれていた。小さな草。葉脈が銀色に光る独特の紋様。注釈が添えてある——『聖域山脈の麓にのみ自生。星脈の浄化を促し、使用者の負荷を大幅に軽減する。煎じて服用、または直接摂取』。


「星脈の負荷を軽減する薬草があるって、昔の文献に書いてあったのを思い出してね。聖域山脈にしか生えない——ヒカリグサっていうんだ」


 ミーリアは植物画に指を伸ばした。指先が紙に触れた瞬間、微かな共鳴を感じた。星脈に繋がる何かの残響。


「ヒカリグサ……」


 ミーリアは文献の文字を追った。古い書体で書かれた注釈に、もう一つ記載があった。『大聖女アリーシアの時代、星脈の使い手はヒカリグサを常用していたとされる』。百年前の大聖女も、同じ問題を抱えていたのだ。


「採りに行くしかないな」


 フェリクスが短く言った。


「聖域山脈は遠いけれど、麓なら日帰りは無理でも一泊で行ける。道は俺が知ってる」


 ロッテが本を閉じた。


「あんたたち二人で行っておいで。あたしは村の薬を準備しておく。裂け目が塞がったとはいえ、体調を崩す人間は出るだろうからね」


 ミーリアはフェリクスを見上げた。フェリクスは窓の外の山を見ていた。朝の光の中で、聖域山脈の稜線が白く輝いている。


「明日の朝、出発する。準備しろ」


「はい」


 ミーリアの声は穏やかだった。けれど鏡に映る白い筋を見なかったふりはできなかった。時間は、少しだけ短くなっている。その分だけ、一日の重さが変わった。

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