第66話 大地の裂け目
朝露がまだ薬草畑の葉先に残っている時刻だった。
フィルが猛然と飛んできた。翡翠の光が痙攣するように明滅し、ミーリアの頬を掠めて旋回する。
〈割れた。大地。割れた〉
「割れた? どこですか、フィルさん」
フィルは西の谷を示した。光が千切れそうなほど激しく揺れている。ミーリアが立ち上がると同時に、足元の土が微かに震えた。
フェリクスが薬草畑の柵を跳び越えてきた。息が上がっている。山の見回りの途中だったのだろう、額に汗が光り、袖の裂け目から擦り傷が覗いていた。走って転んだのか、岩で擦ったのか。そんな怪我を気にもせず駆けてくるほどの事態だった。
「裂け目だ。西の谷の底に亀裂が走った。幅三メートル、深さは底が見えない。瘴気が噴き出してる」
「瘴気……」
「精霊が怯えてる。テラが地面に潜ったまま出てこない。裂け目の周囲の草が全部枯れた。今朝まで青々してた斜面が、灰色だ」
ミーリアの指先が冷えた。瘴気は星脈の乱れが凝縮したもの。生き物に触れれば毒になり、土地に溜まれば永久に草が生えなくなる。
ミーリアの胸の奥で、星脈の振動が低くうねった。聖域山脈の方角から、途切れることのない圧力が押し寄せてくる。
ロッテおばさんが畑の入り口から顔を出した。
「フェリクス、裂け目って本当かい」
「ああ。封印の劣化が加速してる。星脈エネルギーの逃げ道が地表に出た」
「まずいね。あの谷は薬草の採取地だよ。瘴気に当たったら畑にも被害が及ぶ」
ミーリアは薬草園の作業手袋を外した。
「行きます」
フェリクスが眉を寄せた。
「一人で塞げる規模じゃない」
「行かなければ、谷の薬草が全部枯れます。ロッテおばさんが何年もかけて育てた群生地が」
ロッテが口を開きかけたが、ミーリアの目を見て止めた。柔らかい金色の瞳に、白銀の光が微かに混じっている。
「……行っておいで。でも無茶したらあたしが引きずり戻すからね」
ミーリアは頷き、薬草園の小道を走り出した。フェリクスが隣に並ぶ。二人の足が石畳を叩く音がリズムを刻み、温泉街の朝を切り裂いた。すれ違ったマルタが「どうしたの」と叫んだが、答える余裕はなかった。
* * *
西の谷は、朝の光を浴びても暗かった。
谷底を走る亀裂から黒紫の瘴気が立ち昇り、日差しを遮っている。草地だったはずの斜面は一面灰色に枯れ、土が砕けて砂になっていた。亀裂の縁で石が崩れ、底の見えない闇に落ちていく音だけが響いた。
精霊たちの気配が消えている。普段なら風に乗って飛び交うはずの光の粒が、一つもない。
「ここまで酷いのか」
フェリクスが顔を強張らせた。風属性の気流を飛ばして瘴気を散らそうとするが、裂け目から次々と噴き出す黒紫の霧に追いつかない。ミーリアの鼻に、焦げた硫黄のような臭いが届いた。瘴気の匂いだった。喉の奥がひりつき、目の縁が痛む。
フィルが谷に入ることを拒んだ。入口の岩陰で翡翠の光を震わせ、小さく縮こまっている。
〈怖い。入れない〉
「いいですよ、フィルさん。ここで待っていてください」
ミーリアは亀裂の縁に膝をついた。
手袋はもう外してある。素手を、乾いた土に押しつけた。
冷たかった。いつも温かい辺境の大地が、凍えるように冷たい。
目を閉じた。
星脈に意識を沈める。第三段階で覚えた感覚を辿り、大地の深くへ。もっと深くへ。
そこに、聞いたことのない音があった。
低く、重く、途方もなく広い振動。ミーリアの体の中を貫いて、足の裏から頭頂部まで揺さぶる音。地面の下を走る星脈ではない。大地そのもの。岩盤と地殻と、この土地を形作るすべてのものが、一つの声で呻いている。
呼応した。
ミーリアの核紋が白銀に燃え上がった。瞳の金色が消え、白銀一色に染まる。地面に押しつけた掌の下から光の脈が走り、亀裂の縁を覆い、裂け目の中へ沈んでいった。
フェリクスが息を呑んだ。ミーリアの周囲の空気が澄んでいく。瘴気が退き、白銀の光に押し出されるように谷の外へ流れていった。
「これが——第四段階」
光が裂け目の壁面を伝い降りていく。黒紫の瘴気が白銀の光に触れた瞬間、灰になって散った。亀裂の縁の枯れた草が根を張り直し、崩れかけた石がゆっくりと元の位置に戻っていく。
裂け目が閉じ始めた。
左右の岸が引き寄せられるように動き、間の空白が狭まっていく。大地が自ら傷を塞ごうとしている。ミーリアの光は、その意志を増幅しているだけだった。
代わりに、体の奥から何かが抜けていく。
血ではない。熱でもない。もっと根源的なもの。自分の中を流れる時間そのものが、手のひらから大地へ流出していく感覚。
「やめろ! ミーリア!」
フェリクスの声が裂けた。走ってきて、ミーリアの肩を掴んだ。
「寿命を削ってる! わかるか! お前の命が——」
〈止めて。命。減る〉
聖樹の精霊の声が遠くから届いた。老いた女の嘆きのような、低い警告。
ミーリアは歯を食いしばった。あと少し。あと少しで裂け目が閉じる。ここで止めたら、瘴気が再び噴き出す。この谷の薬草は二度と戻らない。ロッテおばさんの採取地が、永遠に死ぬ。
フェリクスの手が肩から離れなかった。掴んだまま、引き剥がすこともできず、かといって放すこともできずにいた。
最後の光を注いだ。
裂け目が閉じた。
亀裂の跡に新しい草の芽が顔を出し、瘴気の名残が白銀の粒子となって朝の光に溶けていった。谷底に、精霊たちの光が一つ、二つと戻ってくる。
ミーリアの手が土から離れた。体の力が抜け、後ろに倒れかける。フェリクスが支えた。ミーリアの体を受け止め、膝の上に頭を乗せた。腕が回り、背中を支えている。硬い腕だった。山守の腕だった。
「……バカが」
声が震えていた。フェリクスの顎が、ミーリアの頭のすぐ上にあった。
「すみません。でも、間に合いました」
ミーリアは笑おうとした。口元が引き攣って、うまく笑えなかった。視界が白く滲み、フェリクスの顔が霞んで見える。指先の感覚がまだ戻らない。手を握ろうとしたが、指が動かなかった。
「動くな。そのまま横になってろ」
フェリクスの手がミーリアの額に触れた。冷たい手だった。いつも温かい手が、今は冷えている。
フィルが恐る恐る近づいてきた。ミーリアの髪の上を飛び、急に動きが止まった。
〈白い。髪。白い〉
「フィルさん?」
フェリクスの顔色が変わった。
ミーリアの栗色の髪の中に、左のこめかみから一筋、白い線が走っていた。
ミーリアはフェリクスの表情を見て、自分の髪に手を伸ばした。指先に触れた一房は、確かに色が違った。
白かった。雪のように、白かった。




