第65話 揺らぐ偽装
帝都イグナシオン、大神殿。
朝の光が高窓から差し込み、祭壇の金箔を照らしていた。広間には百人を超える参列者が並んでいる。貴族、官僚、宮廷付きの司祭たち。
月に一度の浄化の儀式。帝国聖女クラリッサ・エーデルシュタインが、聖光を以て大神殿を清める日だ。
クラリッサは祭壇の前に立った。
白い聖衣が床に裾を引いている。金糸の刺繍が朝の光に煌めいた。髪は丁寧に結い上げられ、宝石の髪留めが光を反射している。
完璧な装い。完璧な姿勢。
胸元で、聖光の器が脈打つように明滅していた。昨日のメンテナンスで出力を調整したはずだ。技術者は「短時間の使用なら問題ない」と言った。次で最後のメンテナンス。それまでに——何かを変えなければならない。
何を変えればいいのか、クラリッサ自身にもわからなかった。
「聖女様、お始めください」
司祭長が促した。クラリッサは目を閉じた。
聖光の器に力を込めた。
光が灯った。金色の光が胸元から放射状に広がり、祭壇を照らした。参列者の顔が金色に染まる。光は天井に届き、高窓のステンドグラスを内側から輝かせた。
美しかった。
けれど光に芯がない。表面だけが光っている。大神殿の壁に染みた年月の穢れを浄化するには、光が壁の奥まで浸透しなければならない。クラリッサの光は壁の表面を撫でただけで、跳ね返ってきた。
それでもいい。参列者の目には、大神殿が聖光に包まれているように見えるはずだ。光量だけなら、まだS級に近い水準を維持できている。あと数分。形だけ整えれば——
聖光の器が震えた。
胸元で、金属が微かに軋む音がした。クラリッサの体に小さな衝撃が走った。出力が揺れている。魔導回路の調律が乱れ始めている。
光が明滅した。
金色の光が一瞬暗くなり、すぐに戻った。ほんの一瞬。しかし百人の参列者の前での一瞬は、永遠に等しかった。
「聖女様——お加減がよろしくないのですか」
傍に控えていた侍女が小声で尋ねた。クラリッサは目を開けなかった。
「何でもありません」
歯の間から声を絞り出した。聖光の器に力を込め直す。光が再び安定する。けれど安定は長く続かなかった。炎が風にあおられるように、光の強さが波打ち始めた。
参列者の間にざわめきが生まれた。
最前列に座った廷臣が隣の者に耳打ちした。その隣の者が後ろの席を振り返った。小さな波紋が、参列席に広がっていく。
「聖女の力が——」
「弱っているのか」
「光が揺れているぞ」
囁き声が大神殿の天井に反響した。クラリッサの耳にも届いていた。全てが聞こえていた。
集中を切らすわけにはいかない。光を維持する。あと少し。もう少し。儀式を終わらせれば、この場を離れられる。
聖光の器が、もう一度震えた。
今度は小さな震えではなかった。胸の奥で金属が軋み、魔導回路が火花を散らすような感覚が走った。出力が急激に落ちた。
光が消えた。
完全に、一瞬だけ、光が消えた。
大神殿が暗くなった。朝の光だけが残り、聖光のない祭壇がただの石の台に戻った。
一秒。二秒。
光が戻った。聖光の器が息を吹き返し、金色の光が再び広がった。けれどその光は先ほどよりも弱く、揺らぎが大きかった。
大神殿は静まり返っていた。
参列者の誰一人として、声を発しなかった。後方で誰かが咳をしかけ、途中で喉に押し戻した。
クラリッサは儀式を終えた。定められた祈祷の言葉を口にし、聖印を切り、祭壇から退いた。足取りは乱れなかった。背筋は伸びていた。聖女としての所作は完璧だった。
ただ、指先だけが震えていた。
* * *
私室に戻ると、扉を閉めて鍵をかけた。
聖衣の胸元から聖光の器を外した。手の中で、宝玉が力なく明滅している。いま測れば、A級を下回っているかもしれない。
鏡の前に立った。
鏡の中の自分は青白い顔をしていた。目の下に隈がある。唇の色が薄い。聖衣の下の体が痩せたことが、鏡越しにもわかった。
「わたくしは帝国聖女ですわ」
鏡に向かって呟いた。声が震えた。
「わたくしが——帝国の聖女なのです。あの田舎娘とは違うのです。違う……」
言葉が途切れた。
鏡の中の顔が歪んでいた。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか。どちらにもなりきれない表情が、鏡の向こうでクラリッサを見つめていた。
姉フローラの書簡が机の上にある。父の指示。距離を取れ。聖光の器のメンテナンスは打ち切り。
後ろ盾が消えていく。
クラリッサは聖光の器を握りしめた。冷たい金属。もう温もりはなかった。
* * *
グリュンハイム。
ミーリアは薬草園の端にしゃがみ込んでいた。
体調はほぼ回復していた。三日間の昏睡の後遺症は残っているが、日常の動作には支障がない。ロッテに「まだ無理するなよ」と言われながらも、薬草の手入れくらいはさせてもらっていた。
テラが足元で小さく振動した。
〈ここ。温かい。水、出る〉
「え?」
ミーリアは地面に手を当てた。目を閉じて、星脈の流れを探る。
指先に温もりが伝わってきた。地面の下を星脈が流れている。その星脈の一本が、ここで地表に近づいていた。とても近い。手を伸ばせば届きそうなほど。
「テラ、ここに水脈がありますか」
〈ある。温かい。上がりたがってる〉
ミーリアは目を開けた。薬草園の端。聖樹からは少し離れた場所。地面に特徴はない。雑草が生えた空き地だ。
「ロッテおばさん」
「なんだい」
ロッテが薬草の束を抱えてやってきた。
「ここの地面の下に、温泉の水脈があるみたいです。テラが教えてくれました」
「温泉? こんな場所に?」
「星脈の噴出口と重なってます。掘れば——温泉が出るかもしれません」
ロッテが目を丸くした。
「マルタが聞いたら踊り出すよ。温泉宿の新しい源泉だって」
フェリクスが畑の向こうからやってきた。水桶を肩に担いでいる。ミーリアの足元を見て、地面に片膝をついた。
「確かに温い。地熱が上がってる」
「掘ってみますか」
「俺がやる。お前は見てろ」
フェリクスが鋤を取りに行った。ミーリアは地面に手を当てたまま、星脈の流れに意識を集中した。力を使うわけではない。ただ聞いている。大地の鼓動を、脈の温もりを。
体の芯のあの「減った」感覚は、まだ残っていた。ミーリアは膝の土を払って、掘る場所の見当をつけた。人が二人しゃがめるくらいの幅は要る。雑草を手で抜いて、掌の幅で四つ分の輪を土に描いた。
フェリクスが戻り、地面を掘り始めた。膝の深さ。腰の深さ。背丈の半分を過ぎた辺りで、土の色が変わった。
「……色が違う」
「どのくらい違いますか」
「黒い。水を吸ってる」
「湯気が出てる」
鋤の先から白い蒸気が立ち上った。フェリクスがさらに掘り進めると、底から透明な湯が染み出してきた。温かい。手をかざすと、蒸気が指先を包んだ。
「出ましたね」
ミーリアの声が弾んだ。湯の匂いを嗅ぐ。硫黄は薄い。柔らかい泉質だ。前世の記憶が微かに囁く。癖のない、やわらかな湯。肌に優しく、体の芯まで温まる。
〈嬉しい。水、嬉しい〉
アクアが穴の縁に現れた。水滴の形をした青い光が、湧き出す湯の上でゆっくりと回っている。
「アクアさんも喜んでる」
ロッテが穴を覗き込んだ。
「いいお湯だ。これを整備すれば、薬草園専用の温泉になるよ。薬草を温泉水で育てたら、効能が上がるかもしれない」
「そうですね。温泉水の成分が根から吸収されれば……」
ミーリアは湯を指ですくって、舌先に当てた。塩気は薄い。鉄の味も混じっていない。これなら根を傷めない。
「試すなら、端の三株からにします。あそこが一番弱っているので、合わなければ先に葉が縮みます」
フェリクスが穴の縁に座り、汗を拭いた。
「楽しそうだな」
「はい。こういうの——好きです。のんびり暮らすって、こういうことだと思うんです」
フェリクスの唇の端が微かに上がった。
* * *
夕方、ベルンが帝都の噂を持ってきた。
酒場のカウンターに肘をつき、声を潜めた。
「ミーリアちゃん。帝都で大騒ぎだよ。今日の浄化の儀式で、聖女クラリッサ様に異変が起きたそうだ」
ミーリアは杯を置いた。
「異変、ですか」
「浄化の儀式の最中に、聖光が——一瞬、消えたそうだ」
消えた。聖女の光が。
「参列した貴族たちは呆然としてたらしい。聖女の力が弱っている、いや、本当に力があるのかって。帝都中がその話で持ちきりだって」
ミーリアは俯いた。
宮廷の大広間で自分を「偽聖女」と告発した、白金色の髪の令嬢。その人の光が、百人以上の目の前で消えた。
杯の縁を指でなぞった。薬草茶を一口含んだが、喉の奥が狭くなっていて、飲み下すのに時間がかかった。
「ミーリアちゃん?」
「……大丈夫です。ありがとう、ベルンさん」
ミーリアは杯を両手で包んだ。温かい薬草茶が、掌に温もりを伝えてくる。
窓の外で、フェリクスが薪を割る音が続いていた。斧が入って、木が裂けて、また間が空く。ミーリアはその間隔に合わせて息を吐いた。
「明日、源泉のまわりに石を積みます。湯が土を崩してしまうので」
「そりゃマルタさんが喜ぶよ。湯の話なら夜明けから来るだろうね」
ベルンが空いた杯を受け取った。薬草園の追肥はあと二畝、ロッテの調合薬は三日寝かせれば仕上がる。
フィルが窓枠に止まった。翡翠の光が夕暮れに溶けている。
〈大丈夫。ミーリア。ここ。安全〉
「ありがとう、フィルさん」
ミーリアは微笑んだ。
日が落ちてから、ミーリアは杯を置いて外に出た。谷間に湯煙が立っている。掘ったばかりの穴の縁にしゃがみ、湯に指を浸した。昼より熱い。
湯面が上がって、縁の土を濡らしていた。指で押すと、土がそのまま崩れた。
「フェリクスさん。桶、いくつ空いてますか」
薪を割る音が止んだ。




