第64話 帝都の地殻変動
帝都イグナシオン。レクシア帝国議会の大広間。
ディートリヒ・ヴァレンシュタインは壇上に立たされていた。
帝国騎士団長。ヴァレンシュタイン公爵家の嫡男。かつては大広間の最上段から廷臣を見下ろす側にいた男が、今は質問者の席から注がれる視線の矢面に立っている。
「ディートリヒ殿。聖域山脈の封印に関する情報を、ヴァレンシュタイン家が隠蔽していたという証言が議会に提出されています。これは事実ですか」
議長の声が大広間に響いた。廷臣たちの目がディートリヒに集まった。
ディートリヒは顎を上げた。軍人の所作で背筋を伸ばし、議長を見返した。
「封印の管理は帝国騎士団の職務です。機密保持の範囲内で適切に対処しておりました」
「機密保持と隠蔽は異なりますが」
「異なりません。帝国の安全保障に関わる情報を、不用意に公開することはできません」
廊下側の席で、数人の廷臣が顔を見合わせた。ディートリヒの弁明は形式上は正論だが、その口調には以前のような余裕がなかった。額に薄い汗が浮いている。
「では、辺境に本物の聖女候補がいるという情報を、いつから把握していたのですか」
「そのような情報は——」
「鑑譜師リーナ・クレスタフェルデ嬢の証言によれば、辺境グリュンハイムのミーリア・ローゼンクロイツ殿が星脈共鳴の力を持ち、大地震から村を守ったとのことです。ヴァレンシュタイン家の情報網がこれを把握していなかったとは、到底考えられませんが」
ディートリヒの唇が引き結ばれた。
大広間の空気が変わった。以前なら「ヴァレンシュタイン公爵家に逆らうのか」という無言の圧力が場を支配していた。今は違う。ディートリヒを見る目に、同情はなかった。
* * *
議会の報告は、その日のうちにエーデルシュタイン公爵家にも届いた。
クラリッサ・エーデルシュタインは、私室の書斎で姉フローラからの書簡を読んでいた。
火急の印が押された封書。フローラの筆跡は乱れていた。いつもは帝都随一と称される端正な文字が、走り書きに近い。
『クラリッサへ。ディートリヒ様が議会で追及されています。封印の隠蔽に関する証拠が提出され、騎士団長の解任が取り沙汰されています。父上は今朝、エーデルシュタイン家としてヴァレンシュタイン家と距離を取る方針を決定しました。すぐに表明します。あなたの聖女としての立場にも影響が及ぶ可能性があります。くれぐれも軽率な行動は控えてください』
クラリッサは書簡を膝の上に落とした。
「姉上が——」
声が喉に引っかかった。
エーデルシュタイン家がヴァレンシュタイン家と距離を取る。それはつまり、クラリッサを聖女に据えた政治的後ろ盾が二つとも揺らぐということだ。ヴァレンシュタイン家は失脚しかけている。エーデルシュタイン家は沈む船から手を引こうとしている。
クラリッサは窓に目を向けた。帝都の宮殿から見える夕暮れの空。地震で崩れた塔の修復工事が続いている。足場が組まれ、石工が働いている。かつて威容を誇った宮殿の回廊は、今も半分が封鎖されたままだった。
胸元の聖光の器に手を触れた。
冷たい金属の感触。かつてはこれが温かかった。力を込めればS級の光を放ち、大神殿を照らし、廷臣たちの畏敬を集めた。今は——出力が不安定で、いつ完全に止まるかわからない。
扉を叩く音がした。
「クラリッサ様」
聞き慣れた声だった。エーデルシュタイン家の魔導技術者。聖光の器の開発と保守を担当する老人。
「入りなさい」
技術者は重い足取りで私室に入った。手に道具箱を持っている。定期メンテナンスの日だった。
「クラリッサ様。本日のメンテナンスを実施いたしますが——先にお伝えしなければならないことがございます」
「何ですか」
クラリッサは技術者の顔を見た。白髪の老人は目を伏せていた。
「当家より指示が参りました。聖光の器のメンテナンスは——次回を最後に打ち切らせていただきます」
空気が凍った。
クラリッサの指先が膝の上で白くなった。
「打ち切る。それはどういう意味ですか」
「エーデルシュタイン家の方針変更に伴い、聖光の器への技術支援を終了するようにと。次回のメンテナンス以降は、わたくしどもは手を引くことになります」
「父上の指示ですか」
「はい」
クラリッサは立ち上がった。椅子が後ろに下がり、床に擦れる音がした。
「わたくしは帝国聖女ですよ。エーデルシュタイン家が聖光の器を作り、わたくしを聖女に据えたのはエーデルシュタイン家ではありませんか。それを——打ち切る?」
声が高くなった。技術者は顔を上げなかった。
「申し訳ございません。わたくしの一存では——」
「一存ではない。父上の指示だと言ったでしょう。ならば父上に伝えなさい。わたくしは聖女です。聖光の器がなくとも——」
言葉が途切れた。
聖光の器がなくとも、何だ。
聖光の器がなければ、クラリッサの光属性はA級だ。S級には届かない。浄化の儀式は形だけのものになり、大神殿の廷臣たちの前で——何もできなくなる。
クラリッサは唇を噛んだ。歯が下唇に食い込み、血の味がした。
「……メンテナンスを」
「はい」
「今日のメンテナンスを。始めてください」
技術者は道具箱を開いた。
クラリッサは椅子に座り直し、聖光の器を胸元から外した。金色の宝玉が嵌め込まれた胸飾り。エーデルシュタイン家の最高傑作。
技術者の皺だらけの手が、慣れた手つきで宝玉を磨き、魔導回路を点検していく。出力調整の細かな作業。これが最後になるかもしれない手つきだった。
* * *
その夜、ヴァレンシュタイン公爵邸。
ディートリヒは書斎の椅子に沈んでいた。暗い部屋に、燭台の炎が一つだけ揺れている。
議会での追及は四時間に及んだ。封印の隠蔽。情報の独占。聖女候補の恣意的な排除。一つ一つの追及が、ディートリヒの政治生命を削っていった。
かつての同盟者たちは距離を取り始めている。エーデルシュタイン家が手を引いた。シュヴァルツベルク家は沈黙を選んだ。グリフォンハート家は議会で中立を宣言した。
味方がいなくなりつつあった。
ディートリヒは机の上の報告書に目を落とした。辺境からの報告。グリュンハイムの薬草師が大地震から村を守った。星脈共鳴。大聖女アリーシアと同質の力。
「辺境の小娘一人に——」
呟きが暗闇に落ちた。
燭台の炎が揺れた。風もないのに。
* * *
グリュンハイムに、帝都の政変の知らせが行商人を通じて届いた。
「ヴァレンシュタイン家のディートリヒ様が議会で追及されているそうだ。騎士団長の解任は時間の問題だって」
ベルンが酒場のカウンターで語った。村人たちがどよめいた。
「ざまあみろ! ミーリアちゃんを追放した連中が失脚するなんて、天罰だ」
「帝都も捨てたもんじゃないね」
ミーリアは酒場の隅で、薬草茶の杯を握っていた。
ざまあみろ、とは思わなかった。ただ胸の中で何かが静かに動いた。追放された夜の記憶。宮廷の大広間。クラリッサの告発。冷たい視線。あの夜から、全てが始まった。
フェリクスが隣に座った。
「帝都が勝手に崩れていく」
「そうですね」
「お前は帝都のことを気にしなくていい。ここを守ればいい」
ミーリアは杯に口をつけた。温かい薬草茶が喉を通っていく。
「そうですね。わたしはここにいます」
窓の外に夜空が広がっていた。星がよく見える夜だった。月は細い三日月で、赤みはなかった。
穏やかな夜だった。けれど帝都では、嵐の目が静かに回り始めている。




