第63話 自治区の決意
翌朝、ハンス村長が集会所に村人を集めた。
グリュンハイムの集会所は石造りの小さな建物だ。地震で壁に亀裂が入り、修繕の跡が生々しく残っている。それでも村人たちは所狭しと詰めかけた。椅子が足りず、壁際に立つ者もいた。
ミーリアは集会所の隅に座っていた。フェリクスが隣に立ち、腕を組んでいる。ロッテが反対側に座り、マルタが入口近くで腕まくりをしていた。
「皆に伝えることがある」
村長がテーブルの前に立ち、杖を脇に置いた。
「昨日、帝都から使者が来た。ミーリアさんに対する出頭命令だ。帝国議会の決定として、聖女候補の鑑定のため帝都に出頭せよ、と」
集会所がざわめいた。
「出頭だと?」
「ミーリアちゃんを帝都に連れ戻すのか」
「冗談じゃない!」
声が上がった。椅子から立ち上がる者がいた。赤ら顔の鍛冶屋が拳をテーブルに叩きつけた。
「ミーリアちゃんがいなかったら、この村は地震で潰れてたんだぞ! 帝都の連中が何をしてくれた。聖女が祈って何か変わったか」
「そうだ! 帝都にミーリアちゃんをやるもんか」
「守るぞ、ミーリアちゃんを!」
声が重なった。集会所の空気が熱を帯びた。ミーリアは椅子の上で背を丸くしていた。頬が熱い。胸の奥が震えていた。
ハンス村長が手を挙げた。ざわめきが静まった。
「気持ちはわかる。だが感情だけでは帝都と戦えん。わしはグリュンハイムの自治権を盾に交渉するつもりだ」
「交渉なんて生ぬるい! 入口を塞いで追い返せ!」
「落ち着け、ヨーゼフ」
村長が鍛冶屋を制した。それから卓の上に古い羊皮紙を広げた。角が擦り切れ、帝国の紋章が褪せている。
「建国のときの取り決めだ。この村の中のことは、この村で決める」
「帝都が破ったらどうする」
「破ったのは向こうだと、議会宛に書いて出す」
村長は羊皮紙を巻き直し、紐をかけた。
「今の帝都は復興で手一杯だ。こちらの言い分を聞く耳はある」
ロッテが立ち上がった。
「あたしからも一つ」
集会所が静まった。ロッテの声は村長よりも通る。
「ミーリアちゃん。あんた聞いてるかい」
「は、はい」
「あんたは薬草園にいな。交渉も警備もあたしらの仕事さ。あんたの仕事は、この村の大地を守ることだ」
ロッテがミーリアの肩を叩いた。大きな手だった。ミーリアの肩がぐらりと揺れた。
「ロッテおばさん……」
「泣くんじゃないよ。あんたが泣くと、こっちまでもらい泣きするだろうが」
ミーリアの目尻に光が滲んでいた。拭おうとして、拭いきれなかった。
「わたし、ここに来てよかった……」
声がかすれた。村人たちが笑った。優しい笑い声が集会所に満ちた。
マルタが手を挙げた。
「あたしからも一つ。温泉宿は通常営業を続けます。帝都の使者だろうが兵士だろうが、宿代は前払いで一泊銀貨三枚。風呂代は別。値引きなし」
笑い声がさらに大きくなった。鍛冶屋のヨーゼフが「さすがマルタ、商売っ気は忘れないな」と腹を抱えた。
「じゃあ薪は誰が割るんだい」
ロッテが指を折りはじめた。
「うちの若いのを二人出す」
「湯守りはあたし。パンは朝と夕の二回焼きに戻します」
ヨーゼフとマルタが順に答えた。ミーリアも膝の上で指を折った。薬草園の畝は八本。明日は九本目を起こす。
* * *
集会が終わった後、フェリクスは山の精霊たちに警戒態勢を敷いた。
グリュンハイムの周囲に生息する精霊たちに、フィルを通じて指示を出す。帝都からの部隊が来たら、山道に入った時点で知らせるように。
〈わかった。見張る。ずっと〉
フィルが翡翠の光を瞬かせて、山の方角へ飛んでいった。
フェリクスは腕を組んだまま、山の稜線を見つめていた。ミーリアが隣に立った。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「ありがとうございます。わたしを守ろうとしてくれて」
「当たり前だ」
「当たり前じゃないです。フェリクスさんも、村長さんも、ロッテおばさんも、みんな——」
「当たり前だと言っている」
フェリクスが遮った。腕を組み直し、山道の入口へ顎を向けた。
ミーリアは黙った。フェリクスの横顔を見た。森緑の髪が風に流れ、日焼けした額の傷痕が陽に照らされている。ミーリアは半歩、そちらに寄った。
* * *
夕方、マルタが手紙を持ってきた。
「ミーリアちゃん、リーナさまからまた手紙よ」
銀色の蝋印。リーナの筆跡だった。二通目の手紙。出頭命令とほぼ同時に出されたのだろう。
ミーリアは封を切った。
『ミーリアさま。出頭命令のことは承知しております。わたくしの証言がきっかけです。ご迷惑をおかけしていたら申し訳ございません。しかし必要なことでした。帝都では大きな動きが起きています。ヴァレンシュタイン家のディートリヒが——失脚しそうです』
ミーリアは便箋を持つ手を止めた。ヴァレンシュタイン。追放を告げられた広間で、いちばん前の椅子に座っていた家の名だった。その当主の息子が失脚する。
手紙は続いていた。
『わたくしの証言をきっかけに、議会でヴァレンシュタイン家の封印隠蔽が追及されています。ディートリヒは帝国騎士団長の地位を解かれる可能性があります。エーデルシュタイン家も距離を置き始めました』
『ミーリアさん、あなたは帝都に来る必要はありません。嵐が過ぎるまで、そこで待っていてください。わたくしが帝都を守ります』
ミーリアは手紙を胸に当てた。
「リーナさま……」
追放された夜に声をかけてくれた人が、帝都の議場で今も立っている。
「何が書いてあった」
フェリクスが聞いた。
「ヴァレンシュタイン家のディートリヒという人が失脚しそうだと。リーナさまの証言がきっかけで」
「ヴァレンシュタイン。お前を追放した連中か」
「はい。でもリーナさまは『帝都に来なくていい、待っていて』と」
フェリクスが頷いた。
「リーナという女は、信用できるのか」
ミーリアは微笑んだ。
「はい。わたしが泣いていた時に、立ち上がる勇気をくれた人ですから」
夕日がグリュンハイムの谷間を橙に染めていた。聖樹のシルエットが夕空に浮かんでいる。
テラが足元で低く振動した。
〈大地。揺れてない。今日は。穏やか〉
ミーリアはテラに微笑みかけた。
「ありがとう、テラ。穏やかなのはいいことだね」
ミーリアは便箋をもう一度開いた。嵐、と書かれた行を指の腹でなぞった。それから丁寧に畳み、枕元の木箱にしまった。リーナからの手紙は全て、ここに保管してある。一通目からずっと。
窓の外を見た。星が一つ、また一つと灯っていく。
「リーナさま。わたしも、わたしにできることをします」
誰にも聞こえない声で呟いた。フェリクスの耳だけが、その声を拾った。けれど何も言わなかった。ただ窓の向こうの星を見上げ、腕を組み直した。
フィルが窓の外から戻ってきた。翡翠の光を明滅させ、ミーリアの手の上に降りた。
〈静か。山。今日は静か〉
「そう。今日は静かなのね」
ミーリアはフィルの翅に指先を触れた。温かい光が指先から手首に伝わった。
それから木箱の蓋を開けた。裏に貼った暦の、今日の枡に炭の欠片で線を引く。線は二本になった。
残りの枡を、端から指で押さえて数える。十八。
炭を置き、蓋を閉めた。窓の外で、山の稜線が夜に沈んでいった。




