第62話 出頭命令
帝都の使者は、村長の家の広間に通された。
テーブルの上に、帝国の紋章入りの封書が置かれた。蝋印は紫。帝国議会の正式な決定を意味する色だった。
ハンス村長がゆっくりと封を切った。
沈黙が広間に落ちた。村長の目が便箋の上を左右に動き、一行ごとに皺が深くなっていく。読み終えると、便箋をテーブルに置いた。
「読みなさい、ミーリアさん」
ミーリアは便箋を手に取った。
帝国議会の書記官の名前。日付。そして本文。
『レクシア帝国議会決定第五一七号。ローゼンクロイツ公爵家三女ミーリア・ローゼンクロイツに対し、聖女候補としての帝都出頭を命ずる。帝都の鑑譜師リーナ・クレスタフェルデ嬢が議会にて証言した「辺境に真の聖女候補が存在する」との報告に基づき、帝国法第三十四条に則り正式な鑑定を実施するものとする。出頭期限は本書到着より20日以内。期限内の不出頭は帝国への反逆と見なす場合がある』
ミーリアの手が震えた。
反逆。
文字の重さが、指先から腕に伝わった。リーナの名前が書かれている。リーナが帝都の議会で、ミーリアのことを証言した。あの銀髪の令嬢が、政治の場に立ってミーリアの存在を訴えた。
「リーナさまが……」
声が小さくなった。便箋を握る手に力がこもった。
「どなたですか、そのリーナという方は」
使者が尋ねた。ミーリアが答える前に、フェリクスが広間の入口に立ちはだかった。
「行かせない」
低い声だった。フェリクスの背中が広間の入口を塞いでいる。使者がフェリクスを見上げた。山守の体格は帝都の文官とは別の生き物のようだった。
「これは帝国議会の正式な決定です。拒否は——」
「聞こえなかったか。行かせない」
「帝国への反逆にあたりますよ」
「反逆でも何でも構わない」
フェリクスの目が使者を射た。琥珀色の虹彩が、夕暮れの光の中で鋭く光った。使者が一歩退いた。
「フェリクスさん」
ミーリアが立ち上がった。フェリクスの袖を引いた。
「大丈夫です。少し落ち着いて」
「落ち着いてなど——」
「お願いします」
ミーリアの声は静かだった。フェリクスは唇を引き結び、一歩横にずれた。けれど腕を組んだ姿勢は崩さない。
ミーリアは使者に向き直った。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「鑑譜師が証言したと書いてありますが、どのような証言だったのですか」
使者は少し迷ってから答えた。
「帝都の鑑譜師リーナ・クレスタフェルデ嬢が帝国議会に請願書を提出し、壇上にて証言しました。『辺境に本物の聖女候補がいる。星脈と直接共鳴する力を持つ者がいる』と」
ミーリアの胸が締めつけられた。
リーナが議会の壇上に立った。貴族たちの前で、ミーリアのことを語った。それがどれほどの覚悟を要することか。鑑譜師の立場で聖女制度に異を唱えるということは、エーデルシュタイン家にもヴァレンシュタイン家にも、正面から刃を向けることと同じだ。
「リーナさまが——わたしのために」
呟きが口から漏れた。
あの夜のことを思い出した。追放された夜、東回廊の柱の陰で泣いていた自分に声をかけてくれた銀髪の令嬢。「泣いていても、何も変わりませんわよ」。あの一言が、ミーリアを立ち上がらせた。
あの人が、今度はミーリアのために戦っている。
ミーリアは便箋を膝の上に置いた。手の甲で目元を拭った。泣いてはいない。でも目の奥が熱かった。
フェリクスが動いた。ミーリアの前に半歩出て、使者との間に体を入れた。何も言わなかったが、その背中が「もう十分だ。帰れ」と語っていた。
「フェリクスさん」
ミーリアはフェリクスの袖を引いた。
「大丈夫です。わたし、自分で言います」
立ち上がった。フェリクスの隣に並び、使者の目を見た。
「使者さん」
「はい」
「帝都には戻りません」
ミーリアの声は穏やかだった。けれど「です/ます」の語尾に、芯が通っていた。
「わたしはグリュンハイムの薬草師です。この村がわたしの居場所です。帝都に戻って聖女の鑑定を受ける必要はありません」
「しかし——」
「でも」
ミーリアは一歩前に出た。
「リーナさまが危険を冒してわたしのことを話してくださったなら、わたしにもできることがあるはずです。帝都に行かなくても、この場所から」
使者は困惑した顔でミーリアを見た。フェリクスの腕が少しだけ緩んだ。ハンス村長が杖で床を軽く叩いた。
「使者殿」
村長の声が広間に響いた。老人の声とは思えない明瞭さだった。
「この書状、確かに受け取りました。しかしグリュンハイムは帝国法第七十二条に基づく自治区です。自治区住民の身柄に関する帝国議会の決定は、自治区代表との協議を経なければ執行できません。これは辺境自治法の規定です」
使者の顔が引きつった。
「それは——自治区の規定であって、帝国議会の決定とは——」
「帝国法に基づく自治権ですよ。帝国議会が帝国法を無視するのですか」
村長が穏やかに微笑んだ。笑顔の奥に、長年の政治交渉で鍛えた鋼がちらりと見えた。
「お帰りになって、議会にお伝えなさい」
村長が立ち上がった。杖を床につき、背筋を伸ばした。使者の顔を真っ直ぐに見据えた。
「本物の聖女は、ここにいる。帝都が彼女を必要とするなら、帝都が頭を下げてここに来なさい」
* * *
使者が去った後、広間に残ったのはミーリアとフェリクスとハンス村長の三人だった。
日が暮れかけている。窓から差し込む夕日が、テーブルの上の帝国議会の書状を照らしていた。
「村長さん、ありがとうございます」
ミーリアは頭を下げた。村長が首を振った。
「礼には及ばんよ。あの書状はただの脅しだ。帝都が辺境に軍を送る余裕は今はない。地震で帝都自体が被害を受けている。だが——」
村長は杖に体を預けた。
「20日の猶予しかない。その間に帝都の政治が動く可能性がある。リーナ嬢の証言が帝都にどんな波紋を広げるか。クラリッサ殿の立場がどうなるか。見極めなければならん」
「村長さん」
「なんだね」
「わたし、リーナさまに手紙を書きます。わたしのために声を上げてくださったこと。ありがとうと」
村長が頷いた。
フェリクスが黙ってミーリアの隣に立っていた。ミーリアがフェリクスを見上げた。
「フェリクスさん、さっきは使者さんを怖がらせすぎです」
「知らん」
「知らんじゃないです。あの人、足が震えてましたよ」
「震えるほうが悪い」
ミーリアは笑った。フェリクスの頬がわずかに緩んだ。けれどその目は笑っていなかった。琥珀色の瞳の奥に、静かな覚悟が灯っていた。
窓の外で、フィルが夕暮れの空を飛んでいた。翡翠の光が、沈みゆく太陽に溶けていく。
二十日。
嵐が来るまでの猶予は、あとわずかだった。




