第61話 嵐の予兆
体が重かった。
目を開けると、見慣れた木の梁が映った。マルタの温泉宿の天井。三日ぶりに見る景色のはずなのに、もう何度も目覚めた場所のような気がした。
窓から朝の光が差し込んでいる。腕を持ち上げようとして、指先がぴくりと動いた。動く。昨日よりも楽に動く。
「……よし」
小さく呟いて、ゆっくりと上体を起こした。頭がふらつく。けれど立ち上がれないほどではない。三日間の昏睡から目覚めた翌日。体は回復に向かっている。
ただ、胸の奥に妙な感覚が残っていた。
星脈共鳴を全力で使った時の残響ではない。もっと根の深い場所から、何かが減ったような感覚。水瓶の水位が少し下がった、とでも言えばいいのか。体の芯にあるはずの熱が、薄くなっている。
ミーリアは自分の手を見つめた。掌に核紋の光が薄く浮かんでいる。白銀ではなく淡い金。いつもの色だ。でも、その光がわずかに揺らいでいた。
寿命。
その言葉が頭をよぎって、振り払った。
* * *
階段を降りると、食堂にフェリクスがいた。テーブルの上に粥と干し肉、薬草茶が並んでいる。ミーリアの姿を見て、椅子から腰を浮かせた。
「座れ。まだ歩くな」
「大丈夫です。昨日より楽ですから」
「楽かどうかは俺が決める」
意味のわからないことを言いながら、フェリクスはミーリアの椅子を引いた。ミーリアは素直に座り、粥に手をつけた。温かい。塩味がちょうどいい。誰かが丁寧に作ってくれたのだと、一口でわかった。
「これ、フェリクスさんが?」
「マルタだ」
フェリクスは目を逸らした。けれど粥の塩加減はマルタの味ではなかった。マルタはもう少し濃い味つけにする。ミーリアは黙って二口目を運んだ。
フィルが窓から飛び込んできた。翡翠の光を激しく明滅させて、ミーリアの肩に止まる。
〈元気? 元気? ミーリア〉
「元気ですよ、フィルさん。ありがとう」
〈三日。長い。怖かった〉
フィルの光が少しだけ弱くなった。ミーリアはフィルの翅に指先を触れさせた。温かい。精霊の体温だった。
「ごめんね。心配かけて」
粥を食べ終えると、薬草茶を飲んだ。ロッテの調合だ。体の芯に温もりが染みていく。けれどその温もりの底に、あの「減った」感覚がまだ横たわっていた。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「あの、少し変な話なんですけど」
ミーリアは杯を両手で包みながら、言葉を選んだ。
「星脈共鳴を使った後、いつもは疲れるだけで済んでいたんです。頭が痛くなったり、熱が出たり。でも今回は違って……なんていうか、自分の中の何かが少し減った気がするんです。体力とか魔力とかじゃなくて、もっと深い場所にあるもの」
フェリクスの箸が止まった。琥珀色の目がミーリアを真っ直ぐに見た。
「寿命か」
その一言が、ミーリアの胸に落ちた。自分で口にできなかった言葉を、フェリクスが代わりに言った。
「……かもしれません」
「二度とあんな無茶はするな」
フェリクスの声が低くなった。怒っている声だ。けれどミーリアにはわかっていた。この人の怒りは、いつも恐れから来る。
「でも、村を守れたんですから。よかったです」
ミーリアは微笑んだ。フェリクスは何か言いかけて、口を閉じた。拳が膝の上で握りしめられていた。
* * *
午後、ミーリアは枕元に置かれていたリーナの手紙を改めて読み返した。
昨日、目覚めた直後に一度目を通したが、体が限界で内容を十分に読めていなかった。
手紙は長かった。
リーナの端正な筆跡が、三枚の便箋に綴られている。
『ミーリアさま。帝都の状況をお伝えします。地震の被害は深刻ですが、それ以上に政治が揺れています。辺境でのあなたの活躍が帝都にも伝わっております。「辺境の薬草師が大地震から村を守った」「村全体を光で包み、建物の崩壊を防いだ」。行商人と旅人の口を通じて広まった話は、もはや噂ではなく事実として受け止められています』
ミーリアは便箋をめくった。
『一方、帝国聖女クラリッサさまの浄化の祈りは効果を上げていません。地震で崩れた大神殿の修復に聖女の力が使われるはずでしたが、聖光は壁の表面を撫でただけでした。「辺境の奇跡」と「聖女の無力」。この対比が帝都で語られない日はありません。民の間では「偽聖女」の囁きが大きくなる一方です』
三枚目。
『ミーリアさん。嵐が来ますわ。帝都の政治が動きます。辺境にいるあなたにも影響が及ぶでしょう。どうかお体を大切に。そして備えてください。あなたが必要になる日が、必ず来ます』
ミーリアは手紙を膝の上に置いた。
「嵐、か……」
窓の外を見た。グリュンハイムの谷間に午後の日差しが降り注いでいる。修繕中の屋根が目についた。瓦が欠けた家、壁に走った亀裂。地震の爪痕が、まだ残っている。
扉を叩く音がした。
「はい」
ロッテが入ってきた。手に薬湯の椀を持っている。
「体の調子はどうだい」
「だいぶ良いです。明日には薬草園に出られると思います」
「無理はするんじゃないよ。あんたがまた倒れたら、フェリクスがまた三日間飲まず食わずで——」
「飲まず食わずじゃなかったです。パンは食べてました」
「パン一個だけだろうが」
ロッテが薬湯を渡しながら笑った。ミーリアは薬湯を啜った。苦い。でもその苦さが体に沁みた。
* * *
夕方、ミーリアが宿の入口に座っていると、村人たちが次々に声をかけてきた。
「ミーリアちゃん、起きたのかい。よかった、よかった」
「聖女様のおかげでうちの家は無事だったよ」
「聖女様、お体は大丈夫ですか」
聖女様。
その呼び方が、いつの間にか村中に広まっていた。
「あの、わたしは薬草師です」
ミーリアは笑顔で訂正した。一人目にも、二人目にも、三人目にも。
「聖女様って呼ばないでください。わたしはロッテおばさんの弟子で、グリュンハイムの薬草師です。たまたま星脈共鳴が使えるだけで……」
「でもミーリアちゃんが村を守ってくれたのは事実だよ」
「それは……そうですけど。でも薬草師です」
村人たちは笑った。「はいはい、薬草師のミーリアちゃんね」。けれど目の奥には敬意と感謝が混じっていて、それが「聖女様」という言葉の重みを帯びている。
ミーリアは困った顔をした。困っている自分に気づいて、また困った。
ハンス村長が夕暮れ時にやってきた。杖をつきながら、ゆっくりと宿の前のベンチに腰を下ろした。
「体は戻ったかね、ミーリアさん」
「はい。ご心配をおかけしました」
「帝都の動き次第では、この村を守る覚悟が必要だよ」
村長の声は穏やかだったが、目には厳しさがあった。
「リーナさまからの手紙にも書いてありました。嵐が来ると」
「ふむ。辺境自治区の自治権は帝国法で認められている。だが帝都が本気で圧力をかけてきたら、法だけでは守りきれん。必要なのは——」
村長が言葉を切った。視線が村の入口の方に向いた。
砂埃を上げて、馬が一頭駆け込んできた。
乗り手は若い男だった。帝都の紋章が入った外套を着ている。早馬の使者だ。馬から飛び降り、膝をついて息を整えた。
「グリュンハイム自治区の方ですか。帝都から急ぎの報せです」
ハンス村長が立ち上がった。フェリクスが宿の中から現れ、ミーリアの前に立った。
「何の報せだ」
「帝都の議会で——辺境の聖女候補について証言がありました。鑑譜師の証言です。帝都が動きます」
ミーリアの胸が跳ねた。
鑑譜師。リーナだ。リーナがわたしのことを、帝都の議会で。
嵐の最初の風が、グリュンハイムの谷間を吹き抜けた。




