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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第59話 嵐の前の静けさ

ブリュッケン村の瘴気浄化を終え、ミーリアは一日休んだ。


 次の地震がいつ来るかわからない。フェリクスは山の精霊たちと連絡を取り、聖域山脈の気配を探り続けていた。精霊たちの報告は一様に不穏だった。


「聖域山脈から悪い気が流れてきているらしい。精霊たちが怯えている。東の谷の精霊は姿を消した」


 朝食の席でフェリクスが告げた。ミーリアはパンを持つ手を止めた。


「精霊が姿を消した……百年前の大崩落の時と同じですね」


「ハンス村長がそう言っていた」


「備えないと」


「ああ」


 フェリクスが頷いた。二人の間に沈黙が落ちた。食堂にはロッテもマルタもいない。朝早くからそれぞれの仕事に出ている。


 ミーリアはパンの残りを口に入れ、皿を片づけた。


「今日、薬草の収穫をしておきたいんです。地震が来たら畑に出られなくなるかもしれないから」


「俺も行く」


「助かります」


* * *


 薬草畑は朝露に濡れていた。


 空は高く澄んでいる。雲一つない秋晴れ。こんな日に地震が来るとは思えない。けれど足元の土の下で、星脈は微かに震え続けている。


 ミーリアは籠を抱えて畑の列を歩いた。ラヴェンダーシスルの葉を摘み、マリアアザミの根を掘り起こし、カミツレの花を集めた。フェリクスが隣で鋏を使い、高い位置に生えた薬草の枝を切り落としてくれる。


「フェリクスさん、そっちの黄色い花も取ってもらえますか」


「これか」


「はい。解熱薬の材料です。地震の後、怪我人や病人が出るかもしれないから」


 フェリクスが黄色い花の束をミーリアの籠に入れた。籠がいっぱいになり、ミーリアは薬草園のテーブルに戻って仕分けを始めた。


 日が高くなった。フェリクスが井戸から水を汲んできて、ミーリアの杯に注いだ。


「ありがとうございます」


「もう一籠分は取れるか」


「はい、午後にもう一度畑に出ます」


 水を飲みながら、ミーリアはフェリクスの横顔を見た。琥珀色の目が山の方角を見つめている。深い森緑の髪に風が通り、額の傷痕が日光に白く光った。


 この人がいる。


 それだけで、胸の中の不安が小さくなる。


* * *


 夕方、ミーリアは台所に立った。


 収穫した薬草の一部を使って、夕食を作る。前世の知識で、根菜と薬草のスープ。体を温める配合にした。生姜に似た辺境の薬草を刻んで鍋に入れると、台所に温かい匂いが広がった。


 フェリクスが戸口に立っていた。


「入ってください。もうすぐできます」


「……ああ」


 テーブルに二人分の食器を並べた。スープと硬めのパンとチーズ。質素だが温かい食事だった。


 フェリクスが無言でスープをすすった。


「うまい」


「本当ですか」


「嘘は言わない」


 ミーリアの頬が緩んだ。フェリクスがパンをちぎってスープに浸す。それを見て、ミーリアも同じことをした。


「フェリクスさん」


「なんだ」


「食べ終わったら、聖樹の前でハーブティーを飲みませんか。今日摘んだカミツレで淹れたいんです」


「……ああ」


* * *


 聖樹の根元に、二人は並んで座った。


 カミツレのハーブティーが湯気を立てている。ミーリアが淹れた二杯。陶器の杯から立ち上る蒸気が、夕暮れの冷たい空気に溶けていく。


 聖樹の幹は温かかった。背中を預けると、星脈の脈動が背骨を通して伝わってくる。穏やかな振動。でもその奥に、微かな揺れが混じっている。


「いい匂いですね、カミツレ」


「……ああ」


 フェリクスが杯を両手で包んでいた。大きな手に、小さな杯。ミーリアは自分の杯に口をつけた。甘い香りが鼻腔を満たす。


 空が橙から紫に変わっていく。谷間の向こうに夕日が沈みかけていた。温泉の湯煙が夕焼けに染まり、金色に輝いている。


「綺麗ですね」


「ああ」


 フェリクスの返事はいつも短い。でも今日は、短い中に温もりがあった。


 しばらく黙ってハーブティーを飲んだ。鳥が鳴いている。遠くで子供の笑い声が聞こえた。グリュンハイムの日常の音。


「怖いか」


 フェリクスが杯を膝の上に置いて聞いた。


 唐突な問いだった。でもミーリアにはすぐにわかった。何のことか。


「怖いです」


 正直に答えた。


「次の地震がいつ来るかわからない。カルスト村の瘴気を浄化した時、根がもっと深いところにあると感じました。あれがもし全部噴き出したら、わたし一人の力では……」


 声が小さくなった。杯を握る手に力が入る。


「でも」


 顔を上げた。フェリクスの琥珀色の目が、すぐ隣にあった。


「フェリクスさんがいるから。大丈夫です」


 フェリクスは何も言わなかった。杯を地面に置き、右手をミーリアの左手に重ねた。指が絡む。フェリクスの手は温かくて、硬くて、大きかった。


 ミーリアはその手を握り返した。


 夕日が沈んでいく。空が紫から藍色に変わり、最初の星が瞬いた。二人の影が聖樹の根元で一つに重なっている。


〈来る。大きい。備えて〉


 聖樹の幹が微かに光った。


 ミーリアの背筋に冷たいものが走った。聖樹の精霊の声だった。老婆のシルエットが幹の奥に揺らめいている。普段は重要な場面でしか語りかけない精霊が、初めて警告を発していた。


「フェリクスさん、今の……」


「聞こえた。聖樹の精霊が動いた」


 フェリクスが立ち上がった。ミーリアの手を引いて立たせ、聖樹の幹に手を当てた。


「精霊。いつだ」


 返事はなかった。シルエットが薄れ、幹の光が消えた。けれど伝わった感情だけが胸に残っている。切迫。焦燥。百年前にも同じものを感じたのだろうか。


「村長に伝えよう。備えがいる」


「はい」


 二人は聖樹を離れ、村へ向かった。繋いだ手はそのままだった。


* * *


 夜明け前。


 ミーリアは浅い眠りの中で目を覚ました。


 窓が白んでいた。夜と朝の境目。フィルが窓枠に止まり、翡翠の光を消している。眠っているのではなかった。光を消して、じっと外を見ている。


 ミーリアは布団から出て、窓に歩み寄った。


 空は灰色だった。雲はない。けれど空気が重い。昨夜までの秋晴れが嘘のように、大気全体が息を詰めていた。


 月が見えた。


 赤い。


 西の空に沈みかけた月が、血のように赤く染まっていた。前回の大陸同時異変の夜と同じ色。あの夜、星脈が叫び、ミーリアの体から光が溢れた夜と。


「フェリクスさん!」


 ミーリアは階段を駆け下りた。


「月が……!」


 玄関の扉を開けると、フェリクスが既に外に立っていた。空を見上げている。赤い月の光が、深い森緑の髪を染めていた。


「わかっている」


 フェリクスの声は低く、静かだった。


「来るぞ」

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