第58話 広がる評判
カルスト村の瘴気浄化から三日で、噂は辺境一帯に広がった。
「グリュンハイムの薬草師が、黒い霧を消した」
「畑が一晩で蘇った」
「井戸水が澄んで、病人が回復した」
行商人のベルンが苦笑しながら報告した。
「ミーリアちゃん、もう隠しようがないよ。カルスト村の連中が方々に触れ回ってる。東のブリュッケン村からも相談が来てるし、南の交易路の宿場町からも」
「ど、どうしましょう」
ミーリアは薬草園のテーブルで頭を抱えた。テーブルの上に相談の手紙が五通。全て近隣の村や集落から届いたものだった。
「畑から瘴気が出た」「井戸が枯れた」「子供が原因不明の熱を出している」。地震以降、辺境のあちこちで小さな異変が起きていた。
「全部やろうとするんじゃないだろうな」
フェリクスが壁に凭れたまま言った。腕を組み、ミーリアの手元の手紙を見ている。ミーリアは手紙を一通ずつ読み返していた。どの手紙にも切迫した筆跡が並んでいる。
「でも、困っている人がいるんです」
「カルスト村で倒れたのを忘れたのか」
「あの時は範囲が広すぎただけで、小さな浄化なら……」
「無理だ。五ヶ所もあったら体がもたない」
フェリクスの声に苛立ちはない。けれど硬い。譲る気がない声だった。
「あんた、自分を壊す気かい」
ロッテが薬草の束を抱えて入ってきた。テーブルの手紙を一瞥し、眉を寄せた。
「全部引き受けたら三日で倒れるよ。前もそうだった。あんたは頼まれると断れない。だから周りが止めるんだ」
「でも……」
「でもじゃない。体は一つしかないんだよ」
ロッテが椅子に座り、ミーリアの顔を覗き込んだ。
「いいかい。あんたがここで潰れたら、この村はどうなる。グリュンハイムの星脈を安定させてるのはあんただ。あんたが倒れたら、この村まで瘴気にやられるんだよ」
ミーリアは唇を噛んだ。ロッテの言葉は正しい。頭ではわかっている。
でも手紙の文字が目に焼きついていた。「子供が熱を出して5日も下がりません」。「お願いです、助けてください」。
目を閉じた。
暗闇の中に、別の光景が浮かんだ。蛍光灯の白い光。積み上がった書類。空のコーヒーカップ。終わらない仕事。終わらせなければと思い続けた日々。最後に見た天井の色。
わたしは前にも、全部やろうとして壊れた。
目を開けた。手が震えていた。
「……ロッテおばさん」
「なんだい」
「わたし、一つずつにします。一番ひどいところから、順番に。一日一ヶ所、体が持つ範囲で」
ロッテが大きく頷いた。
「それでいい。あんたは賢い子だよ。それにな、あんた一人が走り回らなくても、あたしの薬草で軽い症状は治せる。病人にはまず煎じ薬を送って、瘴気浄化が必要な場所だけあんたが行けばいい」
「そうですね……ロッテおばさんの煎じ薬なら、瘴気を吸い込んだ程度の体調不良は抑えられます」
「任せな。瘴気用の調合はあんたに教わったからね」
ロッテが腕まくりをした。頼もしい師匠の姿に、ミーリアの肩から少しだけ力が抜けた。
フェリクスが壁から背を離した。
「俺が先に見て回る。どこが一番ひどいか判断してから、お前を連れていく」
「ありがとうございます、フェリクスさん」
「礼はいらない」
フェリクスが手紙の束を取り上げ、地図と照らし合わせ始めた。その横顔を見ながら、ミーリアは小さく息をついた。胸の奥のざわめきが、少しだけ収まった。
* * *
——同日、帝都イグナシオン。
宮殿の大神殿で、クラリッサ・エーデルシュタインは祈壇の前に立っていた。
「聖女様、辺境からの報告です。グリュンハイムの薬草師が瘴気浄化に成功したとのこと。宮廷に正式報告が上がっています」
侍従長の声が背後から響いた。クラリッサは振り返らなかった。
「それが、何か」
「民の間でも噂が広がっております。『辺境の聖女は本物だ』と。宮廷官僚の一部からは、聖女様にも瘴気浄化の実演を求める声が」
「やりますわ」
クラリッサは祈壇に手を置いた。聖光の器が胸元で微かに光る。出力は不安定だが、小規模な浄化なら形だけは見せられるはずだった。
光を込めた。
聖光の器が明滅した。金色の光が祈壇から放射状に広がり、大神殿の床を照らした。しかし光は浅い。壁に届く前に減衰し、空気を撫でただけで消えた。
瘴気は微動だにしなかった。
大神殿の隅に設置された瘴気の封入瓶。辺境から取り寄せた実物だ。黒い霧が瓶の中で蠢いている。クラリッサの光は瓶に触れることすらできなかった。
「……」
クラリッサは手を下ろした。
振り返ると、侍従長の後ろに数人の廷臣が立っていた。彼らの目がクラリッサを見ていた。冷めた目だった。失望と疑念が混じった視線が、聖衣の裾から胸元までを舐めるように辿っている。
「聖女様。もう一度、お試しを——」
「今日はここまでですわ」
クラリッサは聖衣の裾を翻し、大神殿を後にした。廊下に出ると、足が速くなった。石畳を打つ靴音が、心臓の鼓動のように響く。
私室の扉を閉めた。
鏡に映った自分の顔は青白かった。聖光の器が胸元で力なく明滅している。
* * *
グリュンハイムに夕暮れが訪れた。
フェリクスの偵察の結果、一番深刻なのは東のブリュッケン村だとわかった。明日、ミーリアとフェリクスで向かう予定だ。
薬草園のテーブルで明日の準備をしていると、テラが足元で低く振動した。
〈遠い。揺れる。また来る〉
ミーリアの手が止まった。
「テラ、今なんて」
〈揺れる。大きい。また〉
テラの声は重かった。土色の体が普段よりゆっくりと回転し、不安を訴えている。
ミーリアは地面に手を当てた。目を閉じて星脈の深層を探る。
微かな震え。遠い場所で何かが蠢いている。脈動は弱いが、規則的だった。聖域山脈の方角。瘴気の根。カルスト村で浄化した枝ではない。もっと太く、もっと深い幹が脈打っている。
次が来る。
前回より、大きい。
ミーリアは手を土から離した。指先が微かに震えていた。フェリクスがミーリアの表情の変化に気づき、近寄った。
「どうした」
「テラが伝えてくれました。次の地震が近いかもしれません。前回より……大きいかも」
フェリクスの目が鋭くなった。
「いつだ」
「わかりません。でも遠くないと思います」
空に最初の星が光り始めていた。風が冷たくなっている。季節が変わりつつあるのか、それとも星脈の異変が空気を変えているのか。
ミーリアは立ち上がり、薬草園の戸締まりを始めた。明日はブリュッケン村。体力を温存しなければならない。
足元の土が、微かに震えた。




