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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第57話 隣村の瘴気

朝霧がまだ晴れきらないうちに、グリュンハイムの門を馬が一頭駆け抜けた。


 乗っていたのは北の隣村カルスト村の青年だった。汗だくで馬から転がり落ち、ハンス村長の家に駆け込んだ。ミーリアが薬草園で朝の作業をしていると、村長の使いが息を切らして走ってきた。


「ミーリアさん、カルスト村から急報です。畑から黒い霧が出て、作物が枯れ始めたと」


「黒い霧……瘴気ですか」


〈黒い。怖い。北の方〉


 フィルが肩の上で震えた。翡翠の光が暗く沈んでいる。ミーリアは乾燥棚に手を伸ばし、解毒薬の材料をまとめた。


 集会所に向かうと、フェリクスが既にいた。カルスト村の青年の話を聞いている。


「地震の後、畑の一角から黒い霧が噴き出した。最初は小さかったんだが、昨日から急に広がって。井戸水も濁り始めて、体調を崩す者が十人を超えました。村長が——どうかグリュンハイムの聖女様に助けを、と」


「聖女じゃありません。薬草師です」


 ミーリアが言い直した。青年が目を丸くする。


「ですが、星脈共鳴で土地を蘇らせる力が——」


「行くぞ」


 フェリクスが立ち上がった。ミーリアを見る。


「支度はできてるか」


「はい」


 薬草の包みを肩に掛け、二人はカルスト村に向かった。


* * *


 北への山道を一時間ほど歩くと、空気が変わった。


 グリュンハイムの清涼な風が、じわりと重くなる。肺の奥に薄い膜が張るような、嫌な感覚。フェリクスが足を止めた。


「精霊の気配が薄い。この先は星脈が乱れている」


〈怖い。行きたくない〉


 フィルが光を弱めた。ミーリアはフィルを両手で包むように支えた。


「大丈夫です。わたしがいますから」


 カルスト村の入口に着いた時、ミーリアは息を呑んだ。


 畑が黒ずんでいた。土の色ではない。黒い霧が地面から立ち上り、低い位置に溜まっている。作物は萎れ、葉先から茶色く縮れて土に垂れ下がっていた。井戸の石組みに黒い苔のようなものがこびりつき、水を汲む綱にまで黒い染みが広がっている。


 村人たちが布で口元を覆い、畑から離れた高台に避難していた。子供を抱えた母親が不安げにミーリアたちを見つめ、老人が杖を握りしめて立っている。カルスト村の村長が高台の端まで出迎えに来た。


「よく来てくれました。昨日から更に広がって、畑の半分がやられています」


「ひどい……」


「瘴気だ。星脈の乱れが地下から噴出している」


 フェリクスが足元の土を靴先で探った。表層は黒ずんでいるが、その下にまだ生きた土がある。


「根が深くない。今なら間に合う」


「やります」


 ミーリアは畑の中心に向かって歩いた。黒い霧が足首にまとわりつく。嫌な冷たさだった。前世の記憶が遠くで囁く。有毒ガスの防護手順。けれどここは前世の研究室ではない。ミーリアの武器は防護服ではなく、星脈の光だ。


 畑の中心に膝をついた。


 両手を土に押しつけた。冷たい。瘴気が指の間を這い上がってくる。ミーリアは目を閉じ、核紋に力を注いだ。


 星脈を探る。


 地面の奥、乱れた脈動が見つかった。本来なら穏やかに流れているはずの星脈が、黒い澱みに塞がれている。その澱みが地上に噴き出して瘴気になっていた。


 光を送る。


 指先から白銀の光が滲み出た。瞳の色が淡い金から白銀に変わる。地面に光の脈が走り、瘴気の黒と星脈の白銀がせめぎ合った。


 じわり、と光が押した。


 瘴気が後退する。黒い霧が薄くなる。しかし根が深い。地下三メートルほどの深さに澱みの本体があり、そこからじわじわと瘴気が湧き出し続けている。


「もっと……深くまで」


 光の脈を地下に伸ばした。白銀の筋が土の中を潜り、澱みの本体に触れた。


 重い。


 地表の浄化とは比較にならない圧力が全身にのしかかった。頭の芯が熱い。こめかみの血管が脈打つ。


「ミーリア、範囲を絞れ。広げすぎるな」


 フェリクスの声が聞こえた。遠い。水の底から聞こえるような声だ。


 ミーリアは奥歯を噛み締めた。範囲を狭めることはできない。瘴気の発生源は畑の中心部から半径二百メートルに散らばっている。一つを塞いでも別の場所から噴き出す。全体を同時に浄化しなければ意味がない。


 光を広げた。


 地面に走る白銀の脈が畑全体に枝分かれしていく。一本、また一本。カルスト村の農地を網のように覆い尽くす。瘴気が光に追われて薄くなり、黒い霧が地上から消えていく。


 井戸水の澱みが晴れた。


 枯れかけた作物の葉先に、微かな緑が戻った。


 村人たちがざわめいた。「黒い霧が消えてる」「畑が戻ってきた」。高台から声が上がる。


〈きれい。きれいになった〉


 テラの声が遠く聞こえた。


 最後の澱みを光が貫いた時、ミーリアの手から力が抜けた。


 指が土から剥がれ、体が傾く。視界が暗くなる。時間の感覚が曖昧だった。数時間が経っていた。日は既に高い位置を過ぎ、西に傾きかけている。


「ミーリア」


 声と同時に、腕が体を支えた。フェリクスだった。地面に崩れ落ちるミーリアを抱え上げ、膝の上に乗せた。


「動けるか」


「……ごめんなさい。足が……」


「いい。動くな」


 カルスト村の村長が駆け寄ってきた。白髪の老人が目に涙を浮かべている。


「聖女様、ありがとうございます。畑が、井戸が——」


「聖女じゃありません」


 ミーリアは掠れた声で答えた。微笑もうとしたが、顔の筋肉がうまく動かない。


「ただの……薬草師です」


「ミーリアだ」


 フェリクスがミーリアを抱え直した。片膝を折り、ミーリアを背中に載せた。


「聖女でも薬草師でもない。ミーリアだ。覚えておけ」


 村長が深々と頭を下げた。フェリクスの背中は温かかった。山道の揺れが心地よく、意識が遠のいていく。


「フェリクスさん」


「喋るな。体力を残せ」


「一つだけ」


 背中に額を預けたまま、ミーリアは囁いた。


「瘴気の根が……もっと深い場所から来てる気がします。わたしが浄化したのは枝の部分で、幹はまだ……聖域山脈の方角から……」


 声が途切れた。ミーリアの体が脱力し、寝息に変わった。


 フェリクスは足を止めず、山道を歩き続けた。背中のミーリアは驚くほど軽い。こんな小さな体で、村一つ分の瘴気を浄化したのだ。


〈深い。根。遠い〉


 フィルが低い位置を飛びながら伝えた。フェリクスは頷いた。


「ああ。聖域山脈の封印だろう。瘴気の根は、あの山の中にある」


 山道の途中で、ロッテが走ってきた。息を切らしている。


「ミーリア! 大丈夫かい!」


「寝てる。体は問題ない」


「そうかい。……ったく、無茶するんだから」


 ロッテがミーリアの額に手を当てて熱を確かめた。平熱だ。ただ消耗が激しい。


「温泉に入れてやりな。星脈の回復にはあの湯が一番効く」


「ああ」


 グリュンハイムの谷間が見えてきた。湯煙が夕暮れの空に白く立ち上っている。フェリクスの背中で、ミーリアが小さく寝返りを打った。

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