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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第56話 新しい朝

告白の翌朝、ミーリアは布団から出られなかった。


 正確に言えば、出ようとした。三回。一度目は窓から差し込む朝日に目を細めて体を起こしたが、昨夜の光景が脳裏を横切り、そのまま布団に戻った。二度目はフィルが枕元で翡翠の光を明滅させて「起きて」と急かしたが、頬が熱くなって枕に顔を埋めた。三度目は階下からロッテの「朝飯だよ!」という声が響いた時だった。


 さすがにこれは無視できない。


 ミーリアは顔を洗い、髪を整え、深呼吸を三つした。鏡に映った自分の顔は、耳まで赤い。


「……大丈夫。普通にしてれば大丈夫です」


〈赤い。顔〉


「フィルさん、黙っていてください」


 階段を下りると、食堂にはロッテとマルタが先に座っていた。テーブルの上にパンとチーズとスープが並んでいる。いつもの朝食だ。いつもの匂いだ。


 そしていつもの場所に、フェリクスが座っていた。


 目が合った。


 ミーリアは足を止めた。フェリクスも動きを止めた。パンを持ったまま、琥珀色の目がミーリアを見ている。


「お、おはようございます」


「……ああ」


 フェリクスが目を逸らした。パンをちぎって口に入れる動作が妙にぎこちない。ミーリアは自分の椅子に座り、スープの皿を引き寄せた。湯気が顔に当たる。


 静かだった。いつもなら朝からマルタがお喋りしているのに、今朝は妙に静かだった。


 横目でロッテを見ると、腕を組んでにやにやしている。マルタはスープの匙を口に当てたまま、ミーリアとフェリクスを交互に見ていた。


「あの、何か……」


「いいや、何も」


 ロッテが首を振った。口の端が上がっている。


 朝食が進む。ミーリアはパンをちぎり、チーズを載せて口に運んだ。いつもの味だ。何も変わっていない。


 フェリクスが杯を取ろうとした。


 同時にミーリアも杯を取ろうとした。


 薬草茶の瓶が一つしかなかったのだ。瓶の取っ手の上で、二人の指が触れた。


 止まった。


 ミーリアの指先がフェリクスの手の甲に触れている。硬い皮膚。山仕事で日焼けした、温かい手。


「あ」


「……」


 二人とも手を引かない。引けない。指先が凍りついたように動かない。フィルが二人の間を飛び回り、翡翠の光を撒き散らしている。


「やっとくっついたかい。遅いよ、あんたたち」


 ロッテが堪えきれずに声を上げた。テーブルを叩いて笑っている。


「ロッテおばさん!」


「あんたらがもじもじしてるのは半年以上見てきたんだ。あたしの目にはお見通しさ」


「半年前からわかってたわよ」


 マルタが匙を振った。


「フェリクスが毎朝花を持ってきた時点で、村中が『ああ、あの朴念仁がついに』って」


「村中……?」


 ミーリアの声が裏返った。フェリクスが押し黙り、パンをちぎる手に力が入っている。耳が赤い。


「温泉宿にカップル用のお部屋を用意しようかしら。いい感じの離れがあるのよ」


「そ、そういうのはまだ早いです!」


 ミーリアが慌てて首を振った。マルタが「あら残念」と唇を尖らせ、ロッテが腹を抱えている。フェリクスは無言でスープをすすっていたが、匙を持つ手が微かに震えていた。


* * *


 朝食の後、薬草園に出た。


 いつもの朝。いつもの作業。乾燥棚の薬草を点検し、昨日摘んだ薬草を仕分け、煎じ薬の準備をする。手が覚えている。体が覚えている。日常の動きが、昨夜からの緊張を少しずつほぐしていく。


〈いい匂い。今日も〉


 テラが薬草棚の下でゆっくり揺れた。ミーリアは微笑んでテラの頭を指先で撫でた。


「はい、今日もお仕事です」


 畑に出ると、フェリクスがいた。


 山の見回りから戻ったらしい。外套に朝露がついている。手に薬草の束を持っていた。ミーリアが頼んだ覚えのない薬草だった。


「……南の斜面に生えてた。お前が前に探してたやつだ」


「あ、ラヴェンダーシスル。ありがとうございます、探してたんです」


 薬草を受け取る時、また指が触れた。今度は長くなかった。触れて、すぐに離れた。けれどミーリアの心臓は跳ねて、フェリクスは視線を山の方へ逸らした。


 並んで畑の手入れをした。雑草を抜き、土を起こし、水を撒く。言葉は少なかった。でもいつもと違うのは、フェリクスの手がミーリアの近くにあること。作業の合間に、ふと手が触れること。肩がぶつかること。以前なら一歩距離を取ったフェリクスが、今日は離れない。


 些細な変化だった。


 でも胸の奥が温かくて、ミーリアは土を掘る手を止めて空を見上げた。高い空に白い雲が流れている。風が薬草の匂いを運ぶ。


 隣村の農夫がやってきた。腰痛の薬をもらいに来たのだ。ミーリアは棚から軟膏の壺を出して手渡した。


「ありがとう、ミーリアさん。この軟膏のおかげで畑仕事が楽だよ」


「よかったです。塗る時は手のひらで温めてからにしてくださいね」


「わかった。……あれ、今日はフェリクスも一緒かい。珍しいな、畑仕事なんて」


 農夫がにやりとした。フェリクスが無言で雑草を抜いている。背中が強張っていた。


「ふうん、そういうことかい。よかったじゃないか」


「え、あの、そういうことって……」


「村中知ってるよ。おめでとう、二人とも」


 農夫が笑いながら去っていった。ミーリアは口をぱくぱくさせたが、声が出なかった。フェリクスの雑草を抜く手が荒くなっていた。


「フェリクスさん」


「なんだ」


「昨日のこと……夢じゃないですよね」


 フェリクスが鍬を止めた。しばらく黙って、それから低い声で答えた。


「夢じゃない」


「よかった」


 ミーリアは笑った。フェリクスは何も言わず、鍬を動かし始めた。けれど口元が僅かに緩んでいた。


 日が高くなり、昼の鐘が村の中央から響いた。


 ミーリアは薬草園の奥のテーブルで、摘んだカミツレの花を湯に落とした。ハーブティーを二人分。フェリクスの分は少し濃いめにする。いつの間にか覚えた、この人の好みだった。


 フェリクスが向かいに座り、杯を受け取る。


 湯気が二つ、空に昇っていく。


「今日の午後は隣村の畑を見に行こうと思うんです。昨日の星脈の流れが気になって」


「俺も行く」


「ありがとうございます」


 普通の会話だった。昨日と変わらない話の内容だった。けれど杯を置いたフェリクスの手が、テーブルの上でミーリアの手に重なった。


 今度はどちらも動かなかった。


 フィルが二人の頭上を旋回しながら、翡翠色の花びらのような光を降らせた。


〈好き。二人。嬉しい〉


 光がミーリアの髪に降り注ぐ。フェリクスの肩にも。テーブルの上の薬草茶の杯にも。


「フィルさん、恥ずかしいからやめてください……」


 ミーリアが頬を赤くして俯いた。フェリクスの手は、離れなかった。

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