第55話 告白
リーナが帰る日の朝は、雲一つなかった。
馬車が薬草園の前に停まっている。ルシアンが荷物を積み込み、護衛の兵士たちが準備を整えていた。リーナは白い旅装に銀髪を結い上げ、グリュンハイムの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「短い滞在でしたけれど、とても充実した日々でしたわ」
「リーナさま……」
ミーリアの目が潤んだ。
「ミーリアさん。泣かないでくださいませ。泣くのは——あの夜の回廊で十分ですわ」
リーナが微笑んだ。あの夜。宮廷の東回廊。追放された夜に、声をかけてくれた銀髪の令嬢。あれから長い時間が経ったように感じるが、同時にほんの昨日のことのようにも思えた。
「帝都に戻ったら報告書を出しますわ。あなたの力について——あなたを守る書き方で」
「ありがとうございます。リーナさま」
「リーナ、と呼んでくださいませ。『さま』は宮廷だけで十分ですから」
「……リーナさん」
「よろしい」
リーナがミーリアの手を両手で包んだ。冷たい指先。けれど握る力は温かかった。
「星脈の力は、あなただけのものですわ。誰にも奪わせてはなりません。——それから」
リーナが声を落とした。ミーリアの耳元に顔を寄せる。
「フェリクスさんを大切になさいませ。あの方の核紋の旋律、あなたの傍にいる時だけ穏やかに響くんですのよ」
ミーリアの顔が真っ赤になった。
「え、あの、リーナさん——」
「わたくしの力は嘘をつきませんわ」
リーナが悪戯っぽく笑い、馬車に乗り込んだ。ルシアンが扉を閉める。
「ルシアン。参りましょう」
「はい、リーナ様」
馬車が動き出した。砂利を蹴る車輪の音。リーナが窓から手を振った。ミーリアが手を振り返す。馬車が坂を下り、角を曲がり、やがて見えなくなった。
道に砂埃だけが残った。
〈行っちゃった。銀の髪〉
フィルがミーリアの肩に止まった。
「はい。行ってしまいました。でも、また会えます」
ミーリアは道の先をもう一度見つめて、薬草園に戻った。
* * *
午後、ミーリアは聖樹に薬草茶を供えに行った。
聖樹の根元に小さな湯呑みを置く。精霊祭の供え物はまだ残っていて、花が萎れかけていた。ミーリアが手を伸ばして枯れた花弁を整えると、テラが足元で嬉しそうに揺れた。
「テラさん、供え物のお片付け、手伝ってくれますか」
〈うん。手伝う〉
テラが枯れた花弁を土に沈めていく。大地に還すのだ。
足音がした。振り返ると、フェリクスが歩いてきた。
「ここにいたか」
「はい。聖樹にお茶を供えに」
フェリクスが聖樹の幹を見上げた。古い枝が夕日に照らされ、葉の隙間から光が漏れている。精霊祭の燈籠の残りが一つ、枝に引っかかったまま揺れていた。
「祭りの片付け、まだ終わってないんですね」
「村長が明日やると言ってた」
「そうですか」
二人で聖樹の根元に立った。夕日が谷間を染めていた。温泉の湯煙が橙色に光り、薬草園の緑が影に沈み始めている。精霊たちの光が畑のあちこちで微かに瞬いていた。
グリュンハイムの風景。ミーリアがこの谷に来てから、ずっと見てきた景色だった。けれど今日は違って見えた。リーナが去った寂しさと、何か別のもの。胸の奥で、言葉にならない感情が膨らんでいた。
「フェリクスさん」
「なんだ」
ミーリアは聖樹の幹に手を触れた。樹皮の凹凸が指先に伝わる。百年を超えてここに立ち続けた木。大聖女アリーシアの記憶を預かり、精霊たちの拠り所となっている古木。
「わたし、ここに来た時のことを覚えています。帝都を追い出されて、泣きながら馬車に乗って、何もかもわからなくて」
「……ああ」
「フェリクスさんに初めて会った時、怖かったです。すごく無愛想で、目つきが鋭くて」
「……悪かったな」
「でも。フィルさんがわたしの肩に止まった時、フェリクスさんの表情が変わったんです。驚いた顔をしていました。あの時から——わたしのこと、見てくれていた」
フェリクスは黙っていた。夕日が彼の横顔を照らしている。琥珀色の目が夕焼けに溶けていた。
「ロッテさんが薬草を教えてくれて、マルタさんが温泉に連れて行ってくれて、村長さんが居場所を作ってくれて。精霊さんたちが懐いてくれて。わたしは——ここで、初めて自分の居場所を見つけました」
声が震えた。止めなかった。
「星脈共鳴で土地を蘇らせた時、フェリクスさんがいてくれました。大陸異変の夜、隣にいてくれました。倒れた時、ずっと看病してくれました」
ミーリアはフェリクスの方に向き直った。夕日を背にして、フェリクスの顔を見上げた。
「フェリクスさん」
声が通った。震えていたが、逃げなかった。
「わたし、ここで守りたいものができました」
フェリクスの琥珀色の目が、ミーリアを見つめた。
「この土地と——あなたを」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。夕日が聖域山脈の稜線にかかり、影が長く伸びていく。風が止んだ。聖樹の葉も揺れない。精霊たちも動かない。世界が息を詰めているように静かだった。
フェリクスの口が開いた。閉じた。もう一度開いた。
「俺は」
声が低い。いつもより、もっと低い。
「言葉が下手だ。お前も知ってるだろう。気持ちを言葉にするのが苦手で、いつも足りなくて、伝わらなくて」
ミーリアは黙って聞いた。
「だが——お前を守ることだけは、誰にも負けない」
フェリクスの声が震えていた。あの夜、赤い月の下で「守れ」と言った時より、もっと震えていた。
「帝都が来ても。星脈が乱れても。何があっても。お前のそばにいる。それだけは——それだけは、約束できる」
ミーリアの視界が滲んだ。涙が頬を伝った。
「帝都には戻りません。ここで、わたしの力を使いたいんです。この土地のために。この村のために。フェリクスさんと一緒に」
「……俺も同じだ」
フェリクスの手が伸びた。ミーリアの手を取った。
掌が触れた瞬間、指先が震えているのがわかった。フェリクスの手だ。あの大きくて、荒くて、揺るぎないはずの手が、今は微かに震えていた。
ミーリアはその手を両手で包んだ。
「震えてますね」
「……うるさい」
「わたしも震えてます」
ミーリアが笑った。涙を流しながら笑った。フェリクスが目を逸らし、逸らしきれず、もう一度ミーリアを見た。
〈嬉しい! 嬉しい!〉
フィルが爆発するように光った。翡翠色の光が聖樹の周囲に散らばり、枝の上を飛び回り、夕暮れの空に光の軌跡を描いた。
〈ずっと待ってた。ずっと〉
テラが地面から飛び上がった。土色の球体が嬉しさで回転しながら、ミーリアの足元を何周もした。
アクアが温泉の源泉から水柱を上げた。五メートルを超える水柱が夕日に照らされ、無数の水滴が虹を作った。聖樹の精霊がゆっくりと幹の奥から姿を見せた。老婆のシルエットが、微かに微笑んでいるように見えた。
〈祝福〉
聖樹の精霊が一言だけ呟いた。低く、深い声だった。聖樹の枝が風もないのに揺れ、葉の隙間から白銀の光が降り注いだ。星脈共鳴ではない。精霊たちの祝福だった。
光の粒がミーリアとフェリクスの周囲に舞い落ちる。肩に、髪に、繋いだ手の上に。温かい光だった。
「精霊さんたちが、お祝いしてくれてます」
「……見りゃわかる」
「フェリクスさん、顔が赤いですよ」
「夕焼けだ」
「夕焼けはもう沈みましたけど」
フェリクスが黙った。ミーリアが笑った。
精霊たちの光が空に舞い上がっていく。聖樹の枝を離れ、谷間に広がり、温泉の湯煙と混じり合った。グリュンハイム全体が淡い光に包まれていた。
ロッテの声が遠くから聞こえた。薬草園の方角だ。
「やっとくっついたかい。遅いんだよ、まったく!」
マルタの声が続いた。
「あたし感動してる! 温泉宿でお祝いしましょうよ!」
ミーリアの顔が真っ赤になった。フェリクスが舌打ちをした。けれどその口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
* * *
夜。
ミーリアは自室の窓辺に立っていた。
今日あったことが夢のようだった。リーナの旅立ち。聖樹の前のあの時間。フェリクスの手の温もり。精霊たちの祝福の光。
頬に触れた。まだ温かい。涙の跡が残っている。
窓の外に月が昇っていた。
ミーリアは月を見上げて、息を呑んだ。
月が欠けている。
満月ではなかった。右側が薄く欠けて、弧を描いている。昨夜は満月だったはずだ。一日で欠け始めるのは自然の理だが、今夜の欠け方は——速い。三日分ほど欠けている。
星脈の異変だろうか。月の光と星脈は連動している。封印の劣化が進めば、月にも影響が出ると聖樹の精霊が言っていた。
胸の奥で、核紋が微かに疼いた。
ミーリアはフェリクスの手の温もりを思い出した。あの手が握り返してくれた感触。震えていた指先。「お前を守ることだけは誰にも負けない」。
ここが、わたしの居場所だ。
ミーリアは拳を握った。月の欠けた光が窓から差し込み、部屋の床に弧を描いている。
守りたいものができた。守ると決めた。何が来ても、ここを離れない。
窓枠にフィルが止まった。翡翠の光がゆっくり明滅している。
〈月。変。でも、大丈夫〉
「はい。大丈夫です。フェリクスさんもいますし、フィルさんも、テラさんも、アクアさんもいますから」
ミーリアは窓を閉めた。
欠けた月が夜空に浮かんでいる。谷間の温泉から湯煙が立ち上り、白い帯が月の光を遮った。
静かな夜だった。けれどその静けさの底に、何かが近づいてくる気配がある。月が欠けた分だけ、夜が深くなったように感じた。
ミーリアはベッドに腰を下ろし、目を閉じた。掌にまだ残っている温もりを握りしめるように、指を丸めた。
明日が来る。その次の日も来る。何が起きても、ここにいる。
それが、ミーリアの決意だった。




