第53話 偽聖女の焦り
帝都イグナシオン。宮殿の東棟、聖女の私室。
クラリッサ・エーデルシュタインは、机の上に広げた報告書を三度目に読み返していた。
『辺境自治区グリュンハイム近隣の農夫が、瘴気中毒により重篤な状態に陥ったが、薬草師ミーリア・ローゼンクロイツの施術により完治。施術の手段は未知の治癒術であり、光属性の治癒魔法とは異なる系統と推測される。農夫の家族は「白銀の光が体を通り抜け、黒い霧が消えた」と証言。現在、農夫は後遺症なく農作業に復帰』
指先が白くなるほど、紙の端を握っていた。
「人の病気を……治した」
声が部屋の壁に吸い込まれた。
枯れた土壌を蘇らせるだけではなかった。瘴気を浄化するだけでもなかった。人間の体に直接触れて、病を癒した。
クラリッサは椅子から立ち上がり、窓の前に歩いた。帝都の街並みが夕日に染まっている。大陸異変の後遺で崩れた市壁の修復はまだ終わっておらず、足場と荷車が通りを塞いでいた。市民の表情は暗い。
報告書に添付されていた証言が目に焼きついている。『白銀の光が体を通り抜け、黒い霧が消えた』。白銀。クラリッサの聖光は金色だ。聖光の器で増幅した偽りの金色。白銀の光など出せたことはない。
あの娘の力は、自分とは根本から違う。
「わたくしにもできます」
独り言だった。窓ガラスに映る自分の顔に向かって言った。
「聖女の祈りは民を癒すもの。わたくしにも——」
言葉が途切れた。
できない。クラリッサは知っていた。器が膨らませるのは見た目の光だけだ。測れば数字は跳ね上がる。けれど瘴気にやられた者に浴びせても、その日の熱が少し下がるだけで、翌朝には戻っている。
机の引き出しを開けた。聖光の器が布に包まれて収まっている。金属製の腕輪型魔導具。エーデルシュタイン家の技術の粋。これがなければ、クラリッサは聖女の座に就けなかった。
腕輪を手に取った。表面が微かに明滅した。前回のメンテナンスから日が経ち、出力が不安定になっている。
「侍従長」
扉の向こうに声をかけた。
「はい、クラリッサ様」
扉が開き、白髪の侍従長が頭を下げた。
「明日の午後、市街の広場で浄化の祈りを行います。市民を集めてください」
「かしこまりました。ただ、クラリッサ様——先日の祈りでも、市民からの反応は芳しくなく」
「構いません。わたくしが聖女であることを、民に示す必要があるのです」
侍従長が去った後、クラリッサは鏡の前に立った。
金色の巻き髪。碧い瞳。白い肌。聖女の正装を纏えば、誰もが目を奪われる美貌だった。聖女として選ばれるに相応しい姿。
けれど鏡の中の顔は、半年前より痩せていた。頬の肉が落ち、目の下に薄い影がある。
「わたくしが帝国の聖女です。あの娘は——ただの薬草師にすぎません」
声に力がなかった。自分でもわかっていた。
* * *
翌日の祈りは、やはり期待に応えられなかった。
広場に集まった市民は百名ほど。半年前は五百を超えたが、効果が薄いことが知れ渡り、足を運ぶ者が減っていた。
クラリッサは祭壇の前に立ち、腕輪に力を通した。手首の内側が熱を持ち、体から金色の光が押し出されていく。市民が手を合わせ、祈りの言葉を捧げる。
しかし光は広場を照らすだけだった。大地は応えない。空気も変わらない。瘴気に蝕まれた市壁の亀裂は、金色の光に一瞬照らされて、また暗く沈んだ。
「効いてる気がしないわね」
後列で女が隣の男に囁いた。
「辺境の娘は一発で農夫を治したって話だぞ」
「あの子が本物の聖女なんじゃないの」
声は小さかったが、クラリッサの耳に届いた。
唇を噛んだ。手首の内側の熱が、す、と引いた。祈りの姿勢を崩さずに、クラリッサは拳を握った。
* * *
私室に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
蝋印にエーデルシュタイン家の紋章。姉フローラからではなかった。父からの書簡だった。
封を切り、読み始めた。
『クラリッサ。帝都の情勢が不穏であることは承知している。辺境の娘の噂は我が家にも届いている。だが、あれに惑わされてはならぬ。お前は帝国聖女だ。その事実は揺るがない——』
建前の文が続き、最後に一段落だけ、筆致が変わっていた。
『なお、姉上の婚約相手であるディートリヒ様に不穏な動きがある。帝都の鑑譜師が議会で何やら証言したことが発端らしい。ヴァレンシュタイン家に対する風当たりが強まっている。エーデルシュタイン家として、距離を再考する時期かもしれぬ。聖光の器の技術者派遣についても、次回を最後に休止を検討している。お前の身の安全のためだ。父より』
文字が霞んだ。
「技術者の休止……」
休止されれば、いずれ器は使い物にならなくなる。つまり——
「偽装が維持できなくなる」
声が震えた。
聖光の器を握りしめた。金属が掌に食い込む。
ディートリヒ様に不穏な動き。姉フローラの婚約者。ヴァレンシュタイン家はクラリッサの後ろ盾であり、同時にエーデルシュタイン家を派閥に繋ぎ止める鎖でもあった。
窓の外で夜風が吹いた。帝都の街灯が遠く、疎らに光っている。半年前まで明るかった通りが、異変後の節電で暗くなっていた。
クラリッサは机に両手をつき、うつむいた。金髪が頬にかかる。
「わたくしが聖女でなくなれば、エーデルシュタイン家は立場を失う。姉上の婚約も、父上の宮廷での地位も——すべて、わたくしの肩にかかっている」
声が掠れた。
「あの娘は田舎で花を咲かせていればいい。人を治して、精霊と遊んでいればいい。帝都にさえ来なければ……帝都にさえ」
呟きは途切れた。
鏡の中の顔が、もう笑っていなかった。
机の上の封書を折りたたみ、引き出しにしまった。聖光の器を布で包み直す。手が震えていた。
帝都の夜は長い。
辺境の温泉の湯煙も、精霊の翡翠色の光も、ここには届かない。クラリッサが知っているのは、宮殿の石壁と蝋燭の火と、父の冷たい筆跡だけだった。
蝋燭の炎が揺れた。窓から入り込んだ隙間風が、机の上の報告書のページをめくる。
クラリッサは蝋燭を手で覆い、炎を守った。




