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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第51話 前世の全て

目を開けた時、天井が滲んでいた。


 木目の天井。マルタの温泉宿の二階。見慣れた部屋だった。窓から差し込む光が白い。朝なのか昼なのかわからなかった。


「起きたか」


 声がした。首を動かすと、ベッドの横にフェリクスが座っていた。椅子に深く腰を下ろし、腕を組んでいる。服が皺だらけだった。


「フェリクスさん……わたし、どのくらい寝ていましたか」


「丸一日。聖樹の前で倒れた後、ここに運んだ」


 聖樹。石碑。アリーシアの記憶。

 思い出した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 蛍光灯の白い光。パソコンのモニターに映る化学構造式。試験管を振る手。乾燥した薬草の粉末を計量するスパチュラ。デスクの端に置いたマグカップのコーヒーは、いつも冷めていた。


 記憶が、洪水のように押し寄せた。


 製薬会社の研究棟。三階の実験室。窓の外は東京の夜景で、終電の時刻はとっくに過ぎていた。隣の席の先輩が「今日も帰れないね」と笑っていた。生薬の抽出実験。煎じ薬の配合比率。漢方の古い文献を翻訳していた夜。

 同期が結婚した日、お祝いのメッセージを送った。返信は「ありがとう。たまには休みなよ」だった。休めなかった。プロジェクトの締め切りが近くて、土日も研究室にいた。


「……っ」


 胸が詰まった。目頭が熱くなる。


「ミーリア?」


 フェリクスの声が遠い。


 最後の記憶が蘇った。研究室の床。倒れた時、頬に触れたリノリウムが冷たかった。視界が暗くなる中で、蛍光灯の光だけが白く残っていた。

 誰かが名前を呼んでいた。先輩の声だったかもしれない。救急車のサイレンが聞こえた気がする。

 最後に思ったこと。


 ——次は、穏やかに暮らしたい。


 それだけだった。


 涙が頬を伝った。声は出なかった。ただ静かに、止まらなかった。


「おい」


 フェリクスが椅子から立ち上がった。タオルを取ろうとしたのか、一歩踏み出して、止まった。ミーリアの表情を見て、何かを察したのだろう。座り直した。何も言わず、ただ横にいた。


 ミーリアは涙を手の甲で拭った。何度も拭った。窓からの光が涙の跡を照らし、枕が濡れた。

 長い沈黙があった。


「全部、思い出しました」


 声が掠れていた。


「前世のこと。わたしが……ここに来る前の、全部」


 フェリクスは口を開かなかった。琥珀色の目でミーリアを見ている。待っている。


「わたしは、薬を作る仕事をしていました。草から薬を作る……今やっていることと、よく似た仕事です。でも、そこには精霊もいなくて、温泉もなくて、誰かが花を摘んできてくれることもなくて」


 声が震えた。止めようとして、止まらなかった。


「毎日毎日、朝から夜遅くまで研究室にいて。体が壊れるまで働いて。最後に倒れた時に思ったんです。次は——穏やかに暮らしたい、って」


 窓の外でフィルが翡翠色の光を灯した。小さな蝶が窓枠に止まり、ミーリアの方を見ている。


「それが本心です。穏やかに暮らしたい。のんびり薬草を育てて、温泉に入って、精霊さんたちと話して。それだけで十分だったはずなんです」


 ミーリアは自分の手を見た。指先に星脈共鳴の光の名残はない。ただの手だ。薬草の匂いが染みついた、小さな手。


「でも」


 拳を握った。


「大切なものを守る力も欲しい。前の人生では……守りたくても、力がなかった。自分の体すら守れなかった」


 声が途切れた。拳の中で爪が掌に食い込んでいる。


「ここにはわたしが守りたいものがあります。薬草園も、温泉も、ロッテさんも、マルタさんも、村のみんなも、精霊さんたちも。だから——力が必要なんです。のんびりだけじゃ、守れないから」


 言い終えて、息を吐いた。胸の奥にずっと溜まっていた言葉だった。聖樹でアリーシアの記憶に触れて、堰が切れたのだ。


 フェリクスは長い間黙っていた。


 窓から入る光が部屋の中を移動し、床板の節目を照らしている。フィルが窓枠から飛び立ち、ベッドの足元でゆっくり光を明滅させていた。


「お前の力は」


 フェリクスが口を開いた。低い声だった。いつもより、少しだけゆっくりだった。


「もう、ここにある」


 ミーリアが顔を上げた。


「枯れた畑を蘇らせた。風邪を治した。温泉の湯を良くした。星脈の乱れを止めた。精霊が懐いた。村の連中が笑うようになった」


 フェリクスが指を折って数えた。いつか夕焼けの斜面でそうしたように。


「全部、お前がやったことだ。お前はもう——力を持ってる。新しく手に入れるものなんかない」


 ミーリアの目が潤んだ。別の種類の涙だった。


「でも。無茶はするな。お前が壊れたら、誰がこの畑を世話する」


「……はい」


 ミーリアは布団の端を握りしめた。フェリクスの言葉は短い。いつも短い。けれどその短さの中に、言い切れなかった感情が詰まっているのだと、ミーリアは知っていた。


 窓から朝の光が差し込んでいる。部屋の隅に干した薬草の束が揺れていた。ロッテが見舞いに持ってきたものだろう。カモミールの香りが微かに漂っている。


「フェリクスさん。ずっとここにいてくれたんですか」


「……椅子が空いてたから座ってただけだ」


「服、皺だらけですよ」


「山で寝るより楽だ」


 嘘だ、とミーリアは思った。この椅子は硬い木の椅子だ。山守の小屋の寝台の方がよほど寝心地がいい。


「安眠茶も作れなくなる」


「それは困りますね」


「俺が困る」


 フェリクスの声に、微かな温もりが混じっていた。


〈元気? 元気になった?〉


 フィルがベッドの端に飛んできて、ミーリアの髪に止まった。翡翠の光が栗色の髪を照らしている。


「はい。元気です」


 ミーリアは笑った。目元が赤かったけれど、笑っていた。


 前世の記憶が全て戻った。研究室の蛍光灯も、冷めたコーヒーも、最後に倒れた床の冷たさも。全部覚えている。

 でも、今の手には薬草の匂いが染みついている。窓の外にはグリュンハイムの朝靄が広がっている。ベッドの横には不器用な山守がいて、肩には翡翠色の蝶がいる。


 穏やかに暮らしたい。それは今も本心だ。

 けれど守りたいものがある以上、穏やかでいるだけでは足りない。


 ミーリアは窓の外を見た。グリュンハイムの谷間に朝靄が漂っている。温泉の湯煙が白く立ち上り、薬草園の緑が露に濡れて光っていた。


「のんびり暮らしたい。でも——守りたいものは、のんびりだけじゃ守れない」


 呟いて、ベッドの端に足をおろした。


「フェリクスさん、薬草園に行きます」


「まだ寝てろ」


「寝てたら薬草が枯れます」


「……頑固だな」


「フェリクスさんに言われたくないです」


 フェリクスが鼻を鳴らした。それは彼なりの笑い方だと、ミーリアはもう知っていた。

 立ち上がったミーリアの足元で、テラが土色の体をゆっくり揺らした。


〈おはよう。待ってた〉


「おはよう、テラさん。お待たせしました」


 窓の外で朝の風が吹き、薬草園の花が揺れた。新しい一日が始まる。全てを思い出した朝。けれど足を向ける先は変わらない。

 ミーリアはエプロンを手に取り、部屋を出た。フェリクスが後ろからついてくる足音が、階段に響いていた。

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