第50話 大聖女の記憶
リーナに導かれて、ミーリアは聖樹の根元に立った。
「ここに古い旋律が眠っていますわ。百年前のものです。わたくしの力でも輪郭しか読めないのですが……ミーリアさんの星脈共鳴なら、直接触れることができるかもしれません」
「百年前……アリーシアさまの?」
「ええ。試してみてくださいまし」
「手は、どこに当てればいいですか」
「根元の土に、直接。苔の上ではなく」
「わかりました。少しどかしますね」
ミーリアは苔を手のひらでよけた。湿った土が出てくる。フェリクスが少し離れた場所で腕を組んだ。
「無理そうなら手を離せ」
「はい」
聖樹の幹は太い。両腕では抱えきれないほどの巨木が、根元を苔に覆われてそびえている。幹の表面の紋様は時間に削られ、もう何の図案かもわからない。
ミーリアは両手を土に当てた。
目を閉じた。
星脈の流れに意識を沈めていく。グリュンハイムの谷間を流れる星脈は穏やかで、いつもの温かさに満ちていた。その流れを辿り、もっと深い場所へ。聖樹の根が大地を掴んでいるさらに下へ。
指先に、何かが触れた。
石の感触だった。
目を開けた。
地面が光っていた。
白銀の光が根元の土から滲み出し、聖樹の周囲を円形に照らしている。ミーリアの手の下で、何かが土の中から浮かび上がろうとしていた。
「何か……出てくる」
「離れろ」
「いえ、平気です。押してくるんじゃなくて、持ち上がってくる感じで」
地面が割れた。割れたのではなく、土が左右に開いた。星脈の力に導かれるように。
古い石碑が姿を現した。
大人の両手ほどの大きさの平たい石。表面に細かい紋様が刻まれ、白銀の光を放っていた。百年間、土の下で眠っていた石碑。
「あれは……」
「リーナさま、下がってください」
「いいえ。近くで見ますわ」
リーナが息を呑んだまま石碑を見ている。ルシアンが一歩前に出かけて、立ち止まった。
ミーリアの手が、石碑に触れた。
世界が白く染まった。
* * *
見えた。
百年前のグリュンハイム。今と同じ谷間。同じ聖樹。けれど周囲の風景が違う。木造の小屋が少なく、畑も広くない。原生林がすぐそこまで迫っている。
一人の女性が、聖樹の前に膝をついていた。
長い銀色の髪。白い衣。ミーリアに似た小柄な体つき。両手を大地に押しつけ、全身から白銀の光を放っている。
大聖女アリーシア。
その表情が見えた。
泣いていた。
涙が頬を伝い、土に落ちている。唇が震え、歯を食いしばっている。体が小刻みに揺れていた。それでも手は大地から離さなかった。光は途切れなかった。
感情が流れ込んできた。
孤独だった。
誰もいない。この場所で、一人で封印を施し続けている。帝都に味方はいない。この力の意味を理解してくれる者はいない。精霊たちだけが傍にいたが、精霊は慰めの言葉を持たなかった。
それでも手を伸ばした。
大地が叫んでいるから。星脈が暴走し、大陸が砕けかけているから。自分がやらなければ、すべてが終わるから。
映像が変わった。
封印が完成する瞬間だった。大地に白銀の光が染み込み、星脈の暴走が収まっていく。アリーシアの体から力が抜け、聖樹の根元に倒れ込んだ。
その顔には、微かな笑みがあった。
最後に残された想いが、石碑に刻まれた。
——いつか。わたしの後を継ぐ者が現れますように。
* * *
白い世界が消えた。
ミーリアは聖樹の根元に座り込んでいた。涙が止まらなかった。頬を、顎を伝い、土に落ちていく。
「ご先祖さま……」
声が震えた。
「ずっと一人で、手を離さなかったんですね」
アリーシアの孤独が、胸の中でまだ脈打っていた。百年前の夜の冷たさ。誰にも理解されない力。それでも手を伸ばし続けた女性の、静かな覚悟。
石碑の光が強くなった。
ミーリアの体が反応した。星脈共鳴が、意思とは関係なく発動している。瞳が白銀に変わり、体全体から光が溢れ出した。
「ミーリア!」
フェリクスが駆け寄った。けれどミーリアの体を包む光が強すぎて、近づけない。フィルが翡翠の光を激しく明滅させ、テラが地面で跳ね回り、アクアが温泉の方角から水の粒を飛ばしてきた。
〈ミーリア〉
〈あつい〉
〈みず、かける〉
「止まらない……星脈が流れ込んでくる——」
ミーリアの声が光に溶けた。
光が聖樹を中心に爆発的に広がった。グリュンハイムの谷間全体を白銀の光が覆い、山の稜線まで届いた。村人たちが窓から顔を出し、空を見上げた。
その瞬間。
東の空が光った。
一瞬だけ。雷のように。けれど雷ではなかった。星脈の光だった。遥か東方から、ミーリアの力に応える光。
「今の……」
フェリクスが東の空を見つめた。
「見たか。東の空が——」
「星脈が……誰かと繋がった気がする」
ミーリアの声が掠れた。瞳がまだ白銀のまま、東の方角を見ている。
「東の方角に、わたしの力に応えた……何か。温かくて、でもどこか寂しい光……」
光が収まっていく。
ミーリアの体から力が抜けた。瞳が金色に戻り、膝が折れた。フェリクスが飛び込んでミーリアの体を受け止めた。
「ミーリア。しっかりしろ」
「大丈夫……です。えっと、ちょっと……」
目の前がぐらぐらと揺れていた。体に力が入らない。フェリクスの腕の中で、ミーリアは聖樹の精霊の気配を感じた。
老婆のシルエットが、幹の奥から微かに見えた。
声が聞こえた。かすかで、震えていて、けれど確かな声。
〈——思い出して。あの子の……願いを〉
涙が溢れた。
あの子。アリーシアのことだ。幹の奥のシルエットが、ゆっくりと頭を下げた。土に落ちた涙の跡が、根の窪みに小さな水たまりを作っている。
「思い出しました」
ミーリアは涙を拭わなかった。拭う必要がなかった。
「アリーシアさまは一人で全部を背負った。最後まで、一人で」
フェリクスの腕に力がこもった。
「ミーリア」
「でもわたしは——一人じゃない」
ミーリアは顔を上げた。涙で濡れた金色の瞳が、フェリクスの琥珀色の目を見つめた。
「ここには、みんながいる」
フェリクスが何も言えなかった。ただミーリアを支える腕が、微かに震えていた。
リーナが静かに歩み寄った。紫の瞳が潤んでいた。
「ミーリアさん。大聖女アリーシアの旋律が、あなたの中で目覚めましたわ。完全に」
リーナは膝をついて、石碑の縁を指でなぞった。紫の瞳が、石に刻まれた紋様を端から端まで追っていく。
ミーリアが横から覗き込んだ。
「この石碑、宿に持ち帰りますか」
「いいえ。出てきた場所に置いておきますわ。写しはわたくしが取ります」
「紙、ありましたっけ」
「ルシアンが持っていますわ」
石碑の光がゆっくりと消えていく。
聖樹の根元に、白い小さな花が咲いていた。さっきまで何もなかった土から、五、六輪。
「……これ、さっきまでありましたか」
「ありませんでしたわ」
ミーリアは膝立ちになって、花の周りの土を指でならした。爪の間に黒い土が入り込んでいる。
「明日、ここに柵を作ります。踏まれてしまいますから」
「材木は納屋にある。杭は俺が打つ」
「お願いします」
東の空はもう光っていなかった。けれどミーリアには感じ取れた。遥か東方で、同じように何かを背負い、戦っている誰かの存在。
南から来たリーナが、いつのまにか同じ方角を向いていた。
フェリクスがミーリアを立たせた。足元がふらつくミーリアの腰に手を回し、支えた。
「歩けるか」
「……はい。たぶん」
「たぶんじゃ駄目だ。おぶってやる」
「えっと、リーナさまの前でそれは——」
「知るか」
フェリクスがミーリアの前にしゃがみ、背中を向けた。ミーリアは諦めて、その広い背中に体を預けた。
聖樹の精霊が、幹の奥から微かに微笑んだ気がした。
〈ありがとう〉
ミーリアはフェリクスの背中で目を閉じた。アリーシアの記憶がまだ胸の中で脈打っている。孤独。覚悟。そして最後の願い。
わたしは一人じゃない。
だから——あなたの願いを、引き継ぎます。
グリュンハイムの谷間に夕暮れが降りてきた。フェリクスの靴が、根元の白い花を避けて土を踏んだ。そのまま村への道を下っていく。背中の上でミーリアの指が、フェリクスの外套の襟を掴み直した。




