第48話 東からの共鳴
朝から空気が違った。
目覚めた瞬間にわかった。大地の奥で星脈がいつもより強く脈動している。温泉の湯煙が普段よりも白く濃く、聖域山脈の稜線がくっきりと見えていた。
「今日は星脈の調子がいい日ですわね。こういう日に試みれば、範囲を大きく広げられる可能性がありますわ」
リーナが宿の入口でミーリアにそう告げた。
リーナの立ち会いのもと、ミーリアはグリュンハイムの外に初めて星脈共鳴を伸ばすことにした。
「隣村の畑が枯れているんです。先月の地震の余波で、土壌の養分が抜けてしまって。ずっと気になっていたんですけど、ここからだと距離が……」
「どのくらい離れていますの?」
「山道で半日ほどの距離です。直線なら、ここから南東に八百歩くらいだと思います」
リーナが紫の瞳を細めた。
「今までの範囲は?」
「えっと……二百歩くらいです。それでも、あとでぐったりしちゃいますけど」
「十倍ですわね。無理はなさらないでくださいまし」
「はい。でも、やってみたいんです」
ミーリアは聖樹の根元に膝をついた。
朝の光が聖域山脈の稜線を照らしている。空気が冷たく、呼吸をするたびに白い靄が口元に漂った。フェリクスが三歩離れた場所に立ち、腕を組んでいる。ルシアンが聖樹の幹に背を預け、リーナの隣で静かに控えていた。
両手を地面に当てた。
土の冷たさが指先に伝わる。その下に、温かい星脈の流れ。グリュンハイムの地面の下を縦横に走る光の筋。いつもはその流れに手を添えるだけで十分だった。
今日は、もっと遠くまで。
目を閉じ、意識を星脈の流れに沈めた。
瞳の色が変わった。金色から白銀へ。閉じた瞼の裏で、光の脈が見える。地面の下を走る幾筋もの白銀の線が、グリュンハイムの谷間を埋め尽くしている。
その流れに、身を預けた。
光がミーリアの手のひらから放射状に広がった。地面に白い筋が走り、薬草園を越え、畑を越え、村の境界を越えていく。テラが地面の下で歓声を上げた。
〈遠い。光。遠くまで〉
光が村の外に出た。山道を辿り、谷を越え、南東の方角に伸びていく。枯れた土壌に星脈の光が届いた瞬間、地面の下で何かが応えた。枯死した根が微かに脈動し、土壌に養分が戻り始めている。
「すごい……範囲が二百歩を超えていますわ。まだ広がっている」
リーナの声が遠く聞こえた。ミーリアの意識はほとんど星脈の中にあった。
光が広がる。三百歩。五百歩。八百歩。隣村の畑に白銀の光が到達し、枯れた茎がゆっくりと起き上がり始めた。
その時だった。
体の奥で、別の振動を感じた。
東の方角。遥か遠く。自分が放った光の先端に、別の脈が噛み合った。
掌が熱くなる。土に触れている面だけが、指の骨まで熱を通してくる。ミーリアの指が勝手に握り込み、爪が土を掻いた。
返してくる脈は、間を空けて打っていた。ひとつ、置いて、もうひとつ。打ち返してくるものは、それきりだった。
「——えっ」
ミーリアの目が開いた。瞳が白銀のまま、東の空を見つめている。
「誰かが……わたしの力に呼応している」
フェリクスが一歩踏み出した。
「ミーリア、何が見えた」
「東の方角です。すごく遠い場所から……温かくて、でもどこか寂しい光が、わたしの星脈共鳴に応えてるんです」
リーナが膝をつき、ミーリアの隣の地面に掌を伏せた。人差し指が土の上で三度、拍を刻む。指が止まった。
「合っていませんわ。半拍遅れて、後ろから重なってきますの」
「リーナさまにも聞こえるんですか」
「聞こえるというより、掌に来ますわ。硬い音ですの。土ではなく、石を伝って届いてきますわ」
リーナが顔を上げ、東に目を向けた。
「迷宮都市の方角ですわね」
紫の瞳が細くなる。リーナはもう一度地面を叩き、ミーリアの手首を掴んだ。
「ミーリアさん、手を離しなさい」
「でも、まだ畑が——」
「わたくしの指示です。今すぐ」
ミーリアは掌を地面から剥がした。土が指の腹に貼りついたまま、白銀の筋が細く尾を引いて消えていく。
「今のは旋律ではありませんの。核紋ですわ」
リーナは腰の記譜帳を開き、震える線を四つ書きつけた。
体から力が抜けた。
膝が折れた。剥がしたばかりの掌をもう一度土に落とし、視界が揺れる。白銀の瞳が金色に戻っていく。
「ミーリア」
フェリクスが駆け寄り、ミーリアの肩を支えた。片腕でミーリアの体を抱え、もう片方の手で額の汗を拭った。
「馬鹿。限界を超えてる」
「えへへ……ちょっと、やりすぎちゃいました」
「ちょっとじゃない。歩けるか」
「えっと……たぶん、無理です」
フェリクスがため息をつき、ミーリアを抱え上げた。軽々と。ミーリアが慌てて手を振った。
「あ、あの、大丈夫です、自分で——」
「黙ってろ。宿まで運ぶ」
リーナが小さく笑った。ルシアンが無表情のまま、二人の後ろについて歩き出した。
* * *
マルタの温泉宿の二階で、ミーリアは布団に横たわっていた。体が重い。指先に力が入らない。星脈共鳴を使いすぎた時の、あの全身がぐったりする感覚。
フェリクスが椅子に座り、黙ってミーリアの枕元に水差しを置いた。
「半日は動くな」
「はい……」
フィルが枕の横に降りてきて、翡翠の光をゆっくり明滅させた。
〈頑張った。休んで〉
「ありがとう、フィルさん」
窓から午後の光が差し込んでいる。天井の木目をぼんやり見つめた。
布団の中で指を握ってみる。爪の内側に土が残っていた。掌の熱はもうない。
「フェリクスさん」
「何だ」
「東の方角に、わたしと同じような……でも違う力を持つ人がいる。その人も——きっと一人で戦っている」
フェリクスは答えなかった。水差しからコップに水を注ぎ、ミーリアの唇に近づけた。
「今は休め。考えるのは明日でいい」
ミーリアは水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通り、体の芯に沁みた。
「……うん」
目を閉じた。意識が遠のいていく中で、東の空の光を思い出していた。あの人は、今もどこかで戦っているのだろうか。
わたしと同じように、何かを守ろうとしているのだろうか。
フェリクスの手が、ミーリアの手の上にそっと置かれた。温かかった。
ミーリアの呼吸がゆっくりと深くなっていく。
フェリクスは手をそのまま動かさなかった。窓の外でフィルが光を落とし、テラが地面の下に沈んでいく。精霊たちも眠りにつく時間だった。
ルシアンが階段の下から声をかけた。控えめな声だった。
「容体は」
「寝た。消耗が大きい。明日も動けないかもしれん」
「リーナが記録を取りたいと言っている。目覚めてからで構わないと」
「当然だ」
フェリクスは立ち上がらなかった。椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
布団の外に出ていたミーリアの手を、掌の上に返す。爪の内側に土が詰まっていた。指の腹の皮が、二本ぶん剥けている。
水差しの水を布に浸し、人差し指から順に拭った。土は落ちたが、爪の際の黒いところは残った。
階段が鳴り、リーナが記譜帳を抱えて上がってきた。
「起こしませんわ。二つ置いていくだけですの」
リーナが枕元に紙を一枚伏せた。
「今日の到達は八百歩の先。初めが二百歩ですのに、一日で四倍を越えましたわ」
「もう一つは」
「返してきた拍を写しました。わたくしの手では、四小節までしか追えませんでしたけれど」
フェリクスは紙を裏返さなかった。
「明日、本人に渡してくれ」
「ええ。……あの子が伸ばしたのは南東ですのよ。返事は東から来ましたわ」
リーナの足音が階段を下りきり、宿の戸が閉まる音がした。
朝、聖樹の根元でフェリクスの靴底にも振動が来ていた。地面から膝へ、膝から背骨へ。番人として山を歩いてきた年月のなかで、あの打ち方には一度も出会っていない。
窓の外、稜線の上に星が一つ出ていた。東の空だった。
布団の上でミーリアの指が、一度だけ土を掻く形に動いた。




