第46話 あの夜の令嬢
薬草園の土に手を当てていると、気持ちが落ち着く。
指先から星脈の温もりが伝わってくる。地面の下を流れるゆるやかな脈動。土壌の栄養が十分に行き渡っていること、昨日植えた種が根を張り始めていること。ミーリアは目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「……大丈夫。ここは、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。帝都からの調査団が来ると聞いてから、胸の奥がざわついて仕方がない。
フィルが肩の上でせわしなく光を明滅させた。
〈来た。人。来た〉
「え」
ミーリアは顔を上げた。薬草園の入口にフェリクスが立っている。腕を組み、門の向こうを見据えていた。
「来たぞ。帝都の連中だ」
声が低い。ミーリアは膝についた土を払い、立ち上がった。
門の向こうから、数人の人影がグリュンハイムの道を歩いてくるのが見えた。帝都の正装を着た役人が二人。その後ろに護衛の兵が三人。
そして先頭に、一人の令嬢が歩いていた。
銀色の髪。
朝日を受けて、白銀とも淡い紫ともつかない色に輝いている。長い髪が背中を流れ、その歩き方は辺境の土の道にそぐわないほど優雅だった。
ミーリアの心臓が跳ねた。
銀色の髪。紫の瞳。どこかで見たことがある。いや、見たというより、聴いたことがある。あの声を。
「フェリクスさん」
「わかってる。俺がいる」
フェリクスがミーリアの前に半歩出た。琥珀色の目が鋭くなっている。
調査団が薬草園の門の前で止まった。役人が一歩前に出て、口を開きかけた。
その前に。
銀髪の令嬢が役人の横をすり抜け、ミーリアの前に歩み出た。紫の瞳がまっすぐにミーリアを見ている。
静かな声だった。
「——あなたの核紋は、今まで聴いたどんな旋律とも違いますわ」
ミーリアは息を呑んだ。
「透明で——どこまでも深い」
令嬢が微笑んだ。穏やかで、品のある笑みだった。
その瞬間、ミーリアの頭の中で何かが弾けた。
宮廷の回廊。赤い月。涙が止まらなかった夜。柱の陰にしゃがみ込んで、声を殺して泣いていた。偽聖女と呼ばれ、追放を告げられたあの夜。
足音が止まった。
小さな声が降ってきた。
——泣いていても、何も変わりませんわよ。
それだけ言って、その人は去っていった。銀色の髪が揺れて、暗い回廊に消えた。名前も知らない。顔も覚えていない。けれどあの声だけは、ずっと胸の奥に残っていた。
「あの……もしかして」
ミーリアの声が震えた。
「あの夜、宮廷の回廊で——『泣いていても何も変わりませんわよ』って声をかけてくださった方……ですか?」
令嬢の紫の瞳が大きく見開かれた。
そして、微笑んだ。
「覚えていてくださったの。あの夜の、泣いていた少女」
「覚えて……覚えています」
声が詰まった。喉の奥が熱い。
「あの言葉があったから、わたし、立ち上がれました。ここまで来れたのは、あの一言があったからです」
「そう」
令嬢が目を細めた。
「あなたは、立ち上がったのですわね」
ミーリアの視界が滲んだ。あの夜の銀髪の令嬢。名前も知らなかった。でもあの人の声は、ずっと胸の中にあった。あの人も、泣きたいのを我慢していた。あの夜に何かを失っていた。あの声には、そういう響きがあった。
「あの……お名前を、教えてくださいますか?」
「リーナ・クレスタフェルデですわ。お目にかかれて嬉しい」
リーナが右手を差し出した。手袋をしていない、素の手だった。
「ミーリアです。ミーリア・ローゼンクロイツ」
ミーリアはリーナの手を取った。細い指だった。けれど温かかった。
「リーナさま。お会いできて、本当に——本当に嬉しいです」
涙がこぼれた。止められなかった。止めようとも思わなかった。
リーナが静かに微笑んでいる。ミーリアの手を両手で包み、軽く握り返した。
「ミーリアさん。あなたの核紋の旋律、もっと近くで聴かせていただけますかしら? わたくし、不思議な鑑定の力がありまして——核紋の旋律を読み解くことができるのです」
「鑑定……旋律?」
「ええ。あなたの核紋が奏でている音は、わたくしが今まで聴いたどの旋律とも違いますの。とても稀有な力の持ち主ですわ」
フェリクスが低い声で割り込んだ。
「帝都からの調査団だな。目的は何だ」
リーナがフェリクスに視線を向けた。一瞬、紫の瞳が細められた。
「山守の方ですわね。あなたの核紋も綺麗な旋律をしていますわ。風と大地の二重奏——辺境の山を守る者にふさわしい響き」
「質問に答えろ」
「わたくしは帝国封印調査団の調査員として参りました。大陸異変の原因を探るのが任務ですわ。ですが——」
リーナがミーリアに目を戻した。
「ミーリアさんの力を利用するつもりはありません。あなたの核紋が教えてくれることを、正しく記録に残す。それがわたくしの仕事ですわ」
フェリクスが鼻を鳴らした。信じていない目だった。
リーナの後ろから、黒い外套を纏った青年が進み出た。長身で、深い色の髪。表情が乏しく、目だけが静かに周囲を見渡している。
「リーナ。調査団の報告がある」
「ルシアン。この方の核紋を聴きなさい。星脈異常の答えは、ここにありますわ」
ルシアンと呼ばれた青年がミーリアを見た。一瞬だけ視線が合い、すぐに逸れた。何かを確認したように、小さく頷いた。
「確かに。異質な旋律だ」
フィルがミーリアの肩から飛び立ち、リーナの周りを一周した。翡翠色の光をぱちぱちと明滅させて、またミーリアの肩に戻る。
〈この人。嘘。ない〉
ミーリアはフィルの言葉に頷いた。精霊は人の心を読むわけではない。けれど、核紋の響きから嘘と誠を感じ取る。フィルが「嘘がない」と言うなら、この人は信じていい。
「リーナさま」
ミーリアは涙の跡を手の甲で拭い、笑った。
「ようこそ、グリュンハイムへ。えっと、何もない田舎ですけど、温泉とお薬草は自慢なんです。まずはお茶でも——」
「ありがとう。ぜひいただきますわ」
リーナが微笑んだ。辺境の朝の光が銀色の髪を照らしている。
フェリクスがまだ腕を組んだまま、リーナを見ている。警戒の色は消えていない。けれど、ミーリアが笑ったことで、一歩だけ後ろに下がった。
* * *
薬草園の作業場で、ミーリアは薬草茶を四人分用意した。
リーナとルシアンが向かいの椅子に座り、フェリクスが壁際に立っている。ロッテが畑仕事の手を止めて、リーナを値踏みするように見ていた。
「それで、帝都の令嬢さん。あんたの『調査』ってのは、具体的に何をするんだい」
「この辺境の星脈の状態を記録し、大陸異変との関連を報告書にまとめますわ。滞在は10日ほどを予定しています」
「10日もいるのかい」
「星脈の変動は日によって異なりますもの。一日二日では正確な記録は取れませんわ」
ロッテが鼻を鳴らした。フェリクスに似た仕草だった。
「まあいいさ。ミーリアちゃんが受け入れたなら、あたしは文句は言わないよ。ただし、この子を帝都に連れていくなんて話になったら、あたしが黙ってないからね」
「ご安心くださいまし。わたくしは、ミーリアさんをここから動かすつもりはありませんの」
リーナが薬草茶を一口飲んだ。紫の瞳が微かに見開かれた。
「おいしい。この配合は初めてですわ」
「えへへ。グリュンハイムの薬草で作った特製です」
ミーリアが照れて笑った。フィルが作業台の上でくるくると回り、光の粒を撒き散らしている。
〈客。来た。賑やか〉
「フィルさん、はしゃぎすぎですよ」
リーナの視線がフィルの飛んでいるあたりを追っていた。精霊の姿は見えないのだろう。けれど空気の揺らぎは感じ取っているらしく、不思議そうに首を傾げている。
「精霊というものを、こんなに近くで感じたのは初めてですわ。帝都では精霊の話は迷信として片づけられていますもの」
「迷信なんかじゃないです。フィルさんもテラさんもアクアさんも、ちゃんとここにいて、一緒に暮らしてるんです」
ミーリアの声に力がこもった。リーナが微笑んだ。
「ええ。わかりますわ。この土地の旋律が、それを証明しています」
窓の外で、グリュンハイムの谷間に朝の光が広がっていく。温泉の湯煙が白く立ち上り、遠くの畑で農夫たちが作業を始めていた。
あの夜から始まった二つの道が、辺境の薬草園で交わった。




