第44話 温泉と不安
調査団の本隊が到着するまで、あと二日。
ミーリアは薬草園で手を動かしていた。乾燥棚の薬草を分類し、在庫の軟膏を数え、新しい薬草茶の調合を試す。手を動かしていれば、頭の中の不安が少しだけ遠くなる。
「あんた、今日はもうやめな」
ロッテが夕方に顔を出した。
「明日も明後日もあるんだから。体を休めなさい」
「でも、まだ解熱用の在庫が——」
「解熱薬が一壺多いか少ないかで世界は変わらないよ。温泉にでも行きな。マルタが待ってる」
ロッテに背中を押されて、ミーリアは温泉宿に向かった。
* * *
マルタの温泉宿の露天風呂は、源泉から三番目に近い浴槽だった。
湯煙が星空に立ち上り、星脈の微かな光が湯の底でぼんやりと揺れている。湯に浸かった瞬間、体の芯から何かが解けていく。肩の力が抜け、呼吸が深くなった。
「はぁ……」
ミーリアが湯船の縁に頭を預けた。
「いい声出すわねえ」
マルタが向かい側で笑った。タオルを頭に乗せ、温泉を満喫している。
「マルタさん、わたし、不安で……」
「調査団のこと?」
「はい。本隊が来たら、わたしの力のことを調べられるかもしれない。帝都に連れ戻されたらどうしよう、って」
マルタが湯の中で膝を抱えた。
「ミーリアちゃん。あんたがここに来てからさ、この宿のお客が増えたの知ってる?」
「え?」
「温泉の効能が上がってるのよ。あんたが来てから。星脈がどうの、っていうのはよくわからないけど、お客さんが『体が軽くなった』『腰痛が治った』って喜んで帰っていくの。前はそんなことなかった」
「それは温泉の力で、わたしは——」
「あんたの力よ。温泉と薬草と、あんたの星脈共鳴っていうの? それが全部混ざって、この谷を良くしてるんだと思う」
マルタが湯から手を出し、ミーリアの方を指した。
「だからね、帝都に連れ戻されるなんてことにはならないわよ。あんたにはフェリクスがいるでしょ」
ミーリアの頬が赤くなった。湯の熱さだけではない。
「フェリクスさんは、その——守ると言ってくれましたけど」
「守る? 守るだけじゃないわよ、あの朴念仁。毎朝あんたの薬草園に通い詰めて、夕方は宿の前であんたの帰りを待ってて。先遣隊が来た時なんて、薬草園の前にずっと立ってたのよ。村人みんな知ってるわ」
「えっ、そ、そうなんですか……」
「あんた気づいてなかったの? 鈍感ねえ」
マルタが湯船で大きく笑った。湯が波立ち、星脈の光が揺れる。
〈ぽかぽか。笑ってる〉
フィルが浴槽の縁に止まり、翡翠の光を明滅させた。湯気に光が混じり、小さな虹が浮かんだ。
「フィルさんまで」
「ほらね。精霊もわかってるのよ。あんたは一人じゃないって」
ミーリアは湯の中に顎まで沈んだ。温かい。体の芯まで温かい。ふわりと、記憶が蘇った。白いタイル。木の桶。窓の外に見える山。
「……温泉旅館」
呟きは湯煙に溶けた。なぜか知っている言葉。どこかで入った温泉の記憶。檜の香りと、窓から見える雪景色。あの時も——疲れた体が湯に溶けていくような感覚だった。
「ミーリアちゃん? 何か言った?」
「いえ、なんでもないです。ちょっとぼんやりして」
マルタが怪訝そうに首を傾げたが、すぐに笑顔に戻った。
「ま、難しいことは明後日まで忘れなさい。今夜はゆっくり温まって、ぐっすり寝るの。それが一番の薬よ」
「はい。ありがとう、マルタさん」
温泉から上がり、体を拭いていると、宿の入口にフェリクスが立っていた。
「湯冷めするな」
外套を差し出された。山の夜風は冷たい。ミーリアは外套を受け取り、肩にかけた。フェリクスの体温が残っていて温かかった。
「ありがとうございます」
「……ああ」
フェリクスが目を逸らした。ミーリアの髪が湯で濡れていて、月明かりに光っている。栗色の髪に白い月の光。
「調査団のこと、心配してるか」
「少しだけ」
「少しじゃないだろう」
見透かされていた。ミーリアは苦笑した。
「……たくさんです。帝都が怖い。連れ戻されたらと思うと、夜に何度も目が覚めます」
正直に言った。フェリクスの前では嘘がつけない。
フェリクスは黙って空を見上げた。星が見えている。白い月が中天にかかり、温泉の湯煙を銀色に染めていた。
「調査団が来ても——お前がここにいたいなら、俺はここに立つ。それだけだ」
低い声だった。飾りのない、短い言葉。けれどその中に、言葉にならない何かが震えていた。
ミーリアの胸が熱くなった。外套の襟を握りしめた。
「……はい」
「風邪を引く。宿に入れ」
「もう少しだけ」
「三分だ」
「五分」
「……四分」
ミーリアが笑った。フェリクスの口元が微かに緩んだ。
* * *
——同日、帝都イグナシオン。
クラリッサ・エーデルシュタインの私室は、帝都最高級の調度品で満たされている。
絹のカーテン、水晶の燭台、象牙の化粧台。聖女の居室にふさわしい豪奢さ。けれど今夜、その部屋に灯る光は暗かった。蝋燭が一本だけ。クラリッサは化粧台の前に座り、鏡に映った自分の顔を見つめていた。
手元に報告書が二通。
一通目。帝都近郊の農地復旧状況。「聖女クラリッサ様の浄化の祈りを三度実施。効果は一時的で、翌日には土壌の状態が元に戻る。農民の不満が高まっている」。
二通目。辺境情報。「グリュンハイムの温泉が『聖女の加護で効能が増した』と行商人の間で話題になっている。辺境の温泉を求める旅人が増えつつある」。
クラリッサは二通目の報告書を握りしめた。紙が皺になった。
「温泉の効能が増した……あの娘のせいですわね」
声が鏡に反射した。低い声。公の場では決して出さない声だった。
先週、宮廷から温泉保養地の視察を打診された。「聖女様の祝福で温泉の効果を高めることはできないか」という提案だった。クラリッサは断った。聖光の器で温泉に祝福を与えることはできない。それは浄化とは違う。
けれど辺境の娘は——何もしなくても、そこにいるだけで温泉の効能を上げている。
「わたくしの祝福した湯など、誰も求めない」
鏡の中の自分に呟いた。金色の巻き髪が蝋燭の光を受けて揺れている。美しい顔。聖女にふさわしい端正な目鼻立ち。けれど目の下に薄い隈が浮かんでいた。
手首に巻いた腕輪が微かに明滅した。聖光の器だった。エーデルシュタイン家の技術者が前回のメンテナンスで「出力が安定しなくなっている」と報告していた。次のメンテナンスまであと十日。
「十日……」
それまでに公の場で大規模な聖光を求められたら。
クラリッサは腕輪を服の袖で隠した。鏡に映った自分と目が合い、すぐに視線を逸らした。
* * *
グリュンハイムの夜。
ミーリアは宿の自室で窓を開けていた。夜風が髪を揺らす。外套はまだ肩にかかっていた。返すのを忘れていた。
明後日、調査団の本隊が来る。銀色の髪の令嬢が来る。あの人なのだろうか。あの夜、宮廷の回廊で声をかけてくれた人なのだろうか。
会いたいような、怖いような。
窓の外で、フェリクスの小屋の灯りが見えた。山守の小屋は温泉宿から少し離れた高台にある。あの灯りが見えるだけで、少しだけ安心できた。
〈眠って。明日がある〉
フィルが枕元で翡翠の光をそっと灯した。
「そうだね。おやすみなさい、フィルさん」
ミーリアは窓を閉め、外套を畳んで枕元に置いた。山の草と革の匂いがする。この匂いが、いつの間にか一番安心する匂いになっていた。
目を閉じた。明後日のことは、明後日考えよう。今夜はただ、温泉の温もりとフェリクスの外套の匂いに包まれて、眠ればいい。




