第43話 調査団という名の嵐
馬蹄の音が、谷間に響いた。
グリュンハイムの南門に四頭の馬が並んだのは、朝霧がまだ残る早い時間だった。先頭に帝国の紋章旗を掲げた騎兵。その後ろに、羊皮紙の束を抱えた文官が二人。最後尾に荷馬車が一台。
「帝国封印調査団先遣隊、到着いたしました。村長殿にお目通りを願いたい」
門の前に出たハンス村長が、静かに頷いた。
「お待ちしておりました。集会所へどうぞ」
村人たちが通りの両脇から覗いている。農夫が鍬を手にしたまま足を止め、子供が母親のスカートに隠れた。帝都の役人が辺境に来ること自体が珍しい。しかもこの時期に。
ミーリアは薬草園の奥にいた。
ロッテが朝一番で来て、ミーリアの腕を引っ張ったのだ。
「あんた、今は目立つな」
「でも——」
「でもじゃないよ。帝都の連中はロクなもんじゃない。あたしが六十年生きてきて、帝都の役人でまともだったのは片手の指で足りる」
ロッテは薬草園の奥、乾燥棚の裏にミーリアを座らせた。
「ここにいな。薬草の仕分けでもしてなさい。フェリクスが集会所で対応してくれるから」
「ロッテさん……」
「心配しなさんな。あんたを守るのはあたしらの仕事だ」
ロッテが豪快に笑って、集会所の方に歩いていった。
ミーリアは乾燥棚の薬草を手に取った。分類はとっくに終わっている。それでも手を動かしていた。指先に薬草の葉脈の感触がある。この触感が落ち着く。
〈緊張。してるね〉
テラが足元で揺れた。
「少しだけ」
〈大丈夫。ここ。安全〉
テラの言葉に頷いた。けれど集会所の方角から聞こえる声が気になった。帝都の役人の声は高く、よく通った。辺境の静けさには不釣り合いな声だった。
* * *
集会所では、先遣隊の隊長がハンス村長と向かい合っていた。
隊長はフレドリクという名の中年の文官だった。帝国第三局の調査官。痩せた顔に鋭い目。辺境の集会所を見回し、眉を顰めた。
「……随分と質素な造りですな。帝都の役所とは比べものにならない」
村長の顔色は変わらなかった。
「辺境の自治区です。華美は必要ありません」
「ふむ。では本題に入りましょう」
フレドリクが羊皮紙を広げ、指で一点を押さえた。周辺の村の名がいくつも並び、そのどれにも赤い印がついている。グリュンハイムの名にだけ、何もない。
「被害が出なかったのはここだけです。理由を書いて帰る。それが我々の仕事でして」
「理解しております」
「村の施設、畑、水源、温泉などを調査させていただきたい。住民への聞き取りも行います」
村長が頷いた。フェリクスが入口の柱に立ったまま、腕を組んで黙っている。
フレドリクがフェリクスをちらりと見た。
「そちらは?」
「フェリクス・ヴィントミューレ。グリュンハイムの山守だ」
「ほう。山守。随分と古風な役職ですな」
嘲りを含んだ声だった。フェリクスの表情は動かなかった。
「辺境では精霊信仰が残っていると聞いている。精霊と交信できるとか。帝都では眉唾ものですが」
「信じなくていい。調査が目的なら、調査をしろ」
フェリクスの声が低い。フレドリクが鼻を鳴らした。
「では、まず畑と水源から。案内を」
* * *
先遣隊は午前中いっぱいかけてグリュンハイムを調査した。
畑の土壌を採取し、井戸の水質を測り、温泉の源泉に細い管を沈めた。村人たちへの聞き取りも行われたが、帝都の役人の態度に村人たちは困惑していた。
「こんな辺境で、まともな農業ができているとは驚きですな」
「この水は帝都の基準に照らすと——ふむ、持ち帰って調べる必要がある」
「精霊信仰? 失礼ですが、それは迷信ではありませんか」
村人たちは黙っていた。声だけが薬草園まで届いてくる。ロッテの返事が、だんだん短くなっていった。
午後になって、先遣隊はグリュンハイムの南端に広がる薬草園にたどり着いた。
フレドリクが柵の向こうの薬草畑を見て、足を止めた。
「これは……」
薬草の緑が、周囲の畑より明らかに濃い。葉が大きく、茎が太い。花が咲いているものは色が鮮やかで、枯れた葉が一枚もない。
「異常な成長速度ですな。この辺境の土壌でこれだけの生育は——自然ではない」
隣に立った部下が羊皮紙にペンを走らせた。フレドリクが柵を乗り越えて畑に入った。
「ちょっと!」
ロッテが声を上げた。
「勝手に入るんじゃないよ。あたしの畑だ」
「調査です。ご協力をお願いします」
フレドリクは薬草を一本引き抜き、根を調べた。土が黒くて肥沃。根の張りが異常に強い。
「この土壌には何らかの魔力的干渉が見られます。自然な成長ではない。魔力汚染の可能性がある」
「魔力汚染だと?」
ロッテの声が低くなった。
「ふざけたこと言うんじゃないよ。この薬草畑は四十年あたしが面倒を見てきたんだ。汚染なんかあるわけないだろう」
「しかし帝都の基準では——」
「帝都の基準が辺境の畑に何の関係があるんだい」
ロッテとフレドリクが睨み合った。フレドリクの部下が報告書に書き込もうとした。「魔力汚染の疑い」。ペンが羊皮紙に触れた瞬間、大きな手がペンの先を押さえた。
フェリクスだった。
「書くな」
「何をする。調査の妨害ですぞ」
「妨害じゃない。事実誤認の訂正だ」
フェリクスがフレドリクの前に立った。一歩分、フレドリクが後退した。フェリクスの方が頭半分高い。
「……四十年、同じ場所に同じ順で植えてる。株分けと、休ませる年の取り方だ」
フェリクスが引き抜かれた薬草を拾い、根を土に戻して足で押さえた。
「汚染された土から、この根は出ない」
「しかし、それは……確かな根拠が——」
「測れ。隣の村の土も掘って、並べて出せ」
フェリクスの琥珀色の目が据わっている。フレドリクが唇を引き結んだ。
「……わかりました。『辺境独自の農法による成長促進の可能性』と記録します。しかし本隊の調査官が最終判断を下しますので、ご承知おきを」
「好きにしろ。ただし報告書に嘘を書くな」
フレドリクが踵を返した。部下が羊皮紙を巻き直しながら後を追う。
ロッテがフェリクスの横に立った。
「あんた、たまにはいいこと言うじゃないか」
「……当然のことを言っただけだ」
「あの紙に汚染って書かれてたら、来年から誰も薬草を買わないよ。助かった」
ロッテが笑った。フェリクスはそっぽを向いた。
* * *
夕方、先遣隊は宿営の準備を始めた。
本隊の到着を待つという。三日後には本隊が来ると告げられた。
集会所の前で村長が先遣隊を見送った後、ミーリアがそっと薬草園から出てきた。ロッテが手招きした。
「あんた、ずっと隠れてたね。偉かったよ」
「隠れてたわけじゃ……」
「隠れてたんだよ。それでいいの。帝都の連中にあんたの力を見せる必要はない」
ロッテが薬草茶を淹れてくれた。ミーリアはその温かさに少しだけ肩の力が抜けた。
「本隊が来たら、もっと大変になるかもしれない」
村長が薬草園に足を運んできた。
「先遣隊はただの調査官だが、本隊の団長は帝都の貴族だとフレドリクが言っていた。格が違う」
「団長はどんな方ですか」
「それが——」
村長が言い淀んだ。その後ろからロッテが口を挟んだ。
「銀色の髪の、若い令嬢だってさ。宿の下働きが、先遣隊の口から聞いてきたよ」
ミーリアの心臓が跳ねた。
銀色の髪。
記憶が弾けた。宮廷の回廊。赤い月の夜。涙が止まらなかった自分に、一言だけ声をかけてくれた人。
「——泣いていても、何も変わりませんわよ」
あの声。あの銀色の髪。
宿から出てきたマルタが、盆を抱えたまま足を止めた。
「ミーリアちゃん? どうしたの、顔色が変わったわよ」
マルタが心配そうに覗き込んだ。
「いえ……なんでも。なんでもないです」
嘘だった。心臓がまだ速い。手のひらが汗ばんでいる。
銀色の髪の令嬢が帝都から来る。まさか。でも、もし。
薬草園の向こうで夕日が沈んでいく。フィルが乾燥棚の端に止まり、翡翠の光をゆっくり明滅させていた。南の方角を見つめている。
南の街道の先で、土埃が細く立っていた。先遣隊の宿営に火が三つ灯る。ミーリアは指を折って数えた。三日後に来る本隊は、その何倍だろう。




