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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第39話 守りたいもの

朝靄の中を、ミーリアは薬草園に向かった。


 異変から四日が過ぎていた。赤い月は一夜だけで、翌日からは通常の白い月に戻っている。けれど空気の中に微かな緊張が残っていた。村人たちの足取りがいつもより速い。井戸の水を汲む手が、少しだけ強い。


 それでもグリュンハイムは動いていた。


「ミーリアさん、今日の分の薬草茶お願いできるかい」


 隣家の農夫が畑に向かいながら声をかけてきた。ミーリアは笑顔で頷く。


「はい、お昼までに作っておきますね」


「助かるよ。異変の後から寝つきが悪くてね。あんたの薬草茶を飲むとぐっすり眠れるんだ」


 農夫が手を振って去っていった。ミーリアは薬草園の扉を開け、乾燥棚から安眠用の薬草を取り出した。レモンバームに似た辺境の薬草を二種類。前世の知識で配合比を調整すると、穏やかな入眠効果が出る。


〈今日も。お仕事〉


 テラが足元で嬉しそうに揺れた。


「はい。今日もお仕事です」


 いつも通りの朝。いつも通りの薬草園。それがどれほど大切なことか、異変の夜を越えたミーリアにはわかっていた。


* * *


 昼前にフェリクスが山から下りてきた。


 外套に朝露がついている。未明から山に入り、星脈の状態を調べていたのだ。ミーリアが薬草茶を差し出すと、無言で受け取り、一息に飲み干した。


「東の谷は落ち着いてきた。北の峠も昨日よりましだ」


「よかった」


「だが南の斜面に新しい乱れが出ている。小さいが、放っておくと広がる」


「午後、見に行きましょうか」


「ああ」


 フェリクスが空になった杯をミーリアに返した。指先が触れた。一瞬。どちらも何も言わず、ミーリアが杯を棚に戻した。


 この数日で、二人の間に自然な流れができていた。


 フェリクスが山の見回りで星脈の異常を見つける。ミーリアが現場に行き、星脈共鳴で安定させる。小さな乱れなら負荷も少ない。大きな乱れがあれば、フェリクスが範囲と深さを見極めて、ミーリアの出力を調整する。

 言葉にして決めたわけではない。自然にそうなった。


「フェリクスさんが目と耳で、わたしが手、みたいですね」


「……変な喩えだな」


「そうですか? わたしはしっくり来るんですけど」


 フェリクスは何も答えず、顎でミーリアの薬草棚を指した。


「安眠茶、農夫に渡したか」


「これから届けます」


「ついでに俺のぶんも作れ」


「フェリクスさんも寝つき悪いんですか?」


「……別に」


 ミーリアは小さく笑った。フェリクスの寝つきが悪いのは、夜中に何度も山の気配を確かめに窓を開けているからだ。マルタが教えてくれた。


* * *


 午後、南の斜面に向かった。


 山道を並んで歩く。フェリクスが前、ミーリアが半歩後ろ。以前はもっと距離があったが、最近は自然に近くなっていた。


 星脈の乱れは斜面の中腹にあった。岩の隙間から土が灰色に変わり始めている。まだ狭い範囲だったが、放置すれば周囲の樹木に広がる。


 ミーリアは岩の横に膝をつき、両手を土に置いた。目を閉じる。星脈の流れを探り、核紋に力を注ぐ。指先から白銀の光が滲み、灰色の土に沁み込んでいく。


「半径五メートルで十分だ。広げるな」


「はい」


 光が乱れを覆い、土の色が黒に戻っていく。岩の隙間に生えた苔が瑞々しさを取り戻し、小さな虫が土の中に潜っていった。


〈元気。ここも元気〉


 テラが土の上を嬉しそうに転がった。


「終わりました。体も大丈夫です」


「よし」


 フェリクスが革水筒を差し出した。ミーリアは水を一口飲み、隣の岩に腰を下ろした。フェリクスもその岩に背を預けた。


 斜面の向こうに谷間が広がっている。薬草畑の緑、温泉の湯煙、石造りの家々。グリュンハイムの全景が見えた。夕日が近い。空が淡い橙色に染まり始めている。


「いい場所ですね、ここ」


「……ああ。ガキの頃から好きだった。ここから村を見るのが」


「フェリクスさんの秘密の場所ですか」


「秘密でもなんでもない。ただの見回りルートだ」


 嘘だ、とミーリアは思った。ここに来るのに、見回りルートから少し外れた。


 風が吹いた。山の草の匂いと温泉の硫黄の匂いが混じっている。フィルが風に乗って谷の上空を旋回し、翡翠の光を散らしていた。


「フェリクスさん」


「なんだ」


「わたしがここに来て、もう結構経ちましたよね」


「……ああ」


「最初は怖かったです。フェリクスさんが」


 フェリクスが眉を顰めた。


「怖くないです、今は。今はとても……安心します。フェリクスさんがいると」


 フェリクスは答えなかった。しばらく谷を見ていた。夕日が山の稜線にかかり、影が長く伸びている。


「お前がここに来てから、この村は変わった」


 フェリクスが口を開いた。低い声。いつもより少し遅い。言葉を選んでいる。


「精霊が活発になった。畑が元気になった。人が増えた。行商人が来るようになった」


 一つずつ、指折り数えるように言った。


「土地も、人も——」


 言葉が止まった。


「俺も」


 最後の一語だけが、少し小さかった。


 ミーリアは目を丸くした。


「フェリクスさんが、そんなにたくさん喋るの初めてです」


「……言いすぎた。忘れろ」


「忘れません」


 即答だった。フェリクスが顔を逸らした。耳の端が赤い。夕焼けのせいではないことを、ミーリアはもう知っていた。


「忘れられるはずがないです」


 声が少し震えた。自分でも驚くほど、言葉に力が込もっていた。


 フェリクスは何も言わなかった。ただ谷を見ていた。二人の間に長い沈黙が落ち、夕日がゆっくりと沈んでいく。


〈ぽかぽか。二人とも〉


 フィルが戻ってきて、二人の間に止まった。翡翠の光が二つの影を繋ぐように揺れている。


* * *


 宿に戻り、ミーリアは自室の机に向かった。


 引き出しから日記帳を取り出す。マルタがくれたものだ。「何か書くといいわよ、気持ちの整理になるから」と手渡された薄い帳面。開くと、最初のページに「グリュンハイム日記」と書いてある。ミーリアの字だ。


 ペンを取り、今日の日付を記した。


 何を書こうかと考えて、筆が止まった。異変のこと、星脈のこと、聖樹の精霊の言葉。書くべきことはたくさんある。けれど最初に浮かんだのは、あの斜面から見た夕焼けだった。フェリクスの声。「俺も」。


 ミーリアはペンを走らせた。


 『守りたいものが、増えました』


 一行だけ書いて、日記帳を閉じた。


 窓の外に月が昇っていた。白い月だった。赤くない。それだけで少しだけ安心できる。

 ミーリアは窓枠に肘をつき、月を見上げた。フィルが窓の外を飛んでいる。翡翠の光が月明かりに溶けて、夜の空気を柔らかく照らしていた。

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