第38話 嵐の後
赤い月が沈んだ翌朝、グリュンハイムの空は灰色だった。
いつもなら谷間を満たす温泉の湯煙が妙に薄い。ミーリアが薬草園に出ると、足元の土が微かに震えていた。靴底を通して伝わる、断続的な脈動。昨夜の星脈の叫びがまだ残っている。
「フィルさん、山の様子はどうですか」
〈揺れてる。東も北も〉
フィルが翡翠の光を暗く明滅させた。普段は陽気に飛び回る精霊が、ミーリアの肩から離れようとしない。
ミーリアは畑の端に膝をつき、両手を土に置いた。目を閉じて星脈の流れを探る。
脈動が乱れていた。いつもは太く滑らかな星脈の流れが、細かく震えている。水面に小石を投げ込んだ後のような、落ち着かない揺らぎだった。
核紋に力を注ぐ。指先から白銀の光が滲み、土に沁み込んでいく。光が星脈の乱れを撫でるように通過し、揺らぎが少しずつ収まっていく。
〈ありがとう。楽になった〉
テラが足元でゆっくり回転した。
「薬草園の周りだけなら、なんとか安定させられそうです」
ミーリアは手を土から離し、額の汗を拭った。範囲は狭い。けれど昨夜の全力発動の後でも、このくらいなら体に負担はなかった。
* * *
昼前、ハンス村長が集会所に村人を集めた。
石造りの小さな建物に、二十人ほどが詰めかけている。農夫、牧童、温泉宿の女将。ロッテが腕を組んで壁に凭れ、フェリクスが入口の柱に肩を預けていた。ミーリアはロッテの隣に座った。
「昨夜の異変について話がある」
村長が皺の深い顔を引き締めて言った。白髪交じりの髭を撫でながら、手元の書類に目を落とす。
「今朝早く、行商のベルンが東から戻ってきた。帝都でも地震があったそうだ。宮殿の壁にひびが入り、下町では家屋が何軒か潰れた。怪我人も出ている」
村人たちがざわめいた。
「帝都だけじゃありません」
入口近くに立っていた行商人ベルンが口を挟んだ。旅塵にまみれた外套を羽織った中年の男。顔に疲労の色が濃い。夜通し馬を走らせて戻ってきたのだ。
「連合王国でも同じ夜に揺れたって話です。マルセイドの交易商から聞きました。大陸全土で同時に起きたらしい。帝都では宮殿の階段が崩れて、宮廷官僚が怪我をしたとか。連合王国の港町では波が高くなって、漁船が三隻転覆した」
「それが全部、同じ夜に?」
農夫の一人が震える声で聞いた。ベルンが重く頷く。
「赤い月の夜に。どこの土地でも月が赤かったと言ってました」
集会所が静まり返った。子供の泣き声が遠くで聞こえた。窓の外で鶏が落ち着きなく鳴いている。
「……百年前の大崩落の予兆ではないのか」
長老のゲルハルトが低い声で言った。杖を握る手が白くなっている。
「わしが子供の頃、祖母に聞いた。大崩落の前年にも赤い月が出た。大地が震え、作物が枯れ、精霊が姿を消した。その翌年に——大陸が割れた」
村人たちの顔が青ざめた。母親が子供を抱き寄せ、農夫たちが互いの顔を見合わせている。
「だがな」
フェリクスが柱から背を離した。低い声が集会所に響く。
「グリュンハイムは無事だ。東の谷も、北の峠も、星脈が不安定になっている。隣村のカルスト村では井戸水が濁った。ブリュッケン村では畑の一部が枯れ始めた。だがこの村だけは、何も起きていない」
村人たちがミーリアを見た。
「ミーリアのおかげだ」
フェリクスが言い切った。
「あいつの星脈共鳴がグリュンハイムの星脈を安定させている。昨夜の異変でもこの村が無傷だったのは、ミーリアの力が土地を守っていたからだ」
「い、いえ、わたしは別に……」
ミーリアが慌てて首を振った。視線が集まり、頬が赤くなる。
「大したことはしてません。ただ少し、土を落ち着かせただけで……」
「大したことだよ」
ロッテが腕を組んだまま言った。
「あんたが来る前のグリュンハイムは、こういう異変が起きたらなすすべがなかった。あんたがいるから、この村は守られてるんだ」
マルタが頷いた。農夫たちが「聖女さまのおかげだ」と口々に言い始めた。ミーリアはますます縮こまったが、胸の奥で温かいものが広がっていた。
「しかし問題は今後だ」
村長が場を締めた。
「大陸全土で異変が起きている。これが百年前の再来だとすれば、一人の力で抑えられる規模ではなくなる。帝都の出方も気になる。当面はフェリクスに星脈の見回りを強化してもらい、ミーリアさんには村の周囲の安定をお願いしたい」
「はい。わたしにできることなら」
ミーリアは背筋を伸ばして答えた。
* * *
集会の後、ミーリアは一人で聖樹の前に立っていた。
樹齢数百年の巨木が夕暮れの光を浴びて佇んでいる。幹の苔が湿った緑を帯び、根元の祠には供え物の花が揺れていた。
手を幹に当てた。
樹皮の温度が伝わる。その奥に、微かな脈動。聖樹の中を星脈が流れている。いつもより震えが強い。昨夜の異変の名残だろうか。
白銀の光が指先に灯った。聖樹に共鳴を送る。幹の内側が微かに光り、根元から地面に光の筋が走った。
映像が来た。
一瞬だけ。百年前の風景がちらりと覗いた。光に包まれた谷。泣いている女性。大地に手を当てて、一人で——。
映像が途切れた。代わりに、声が聞こえた。
〈近い。あの日が……近い〉
聖樹の精霊の声だった。老婆のシルエットが幹の奥に揺らめいている。かすれた声。震えている。
「あの日、とは——」
返事はなかった。精霊のシルエットが薄れ、幹の光が消えた。
ミーリアは手を幹から離した。
指先が震えていた。「あの日」。百年前の大崩落。大聖女アリーシアが一人で封印を施した、あの日。
それが近い。
夕風が谷間を吹き抜けた。聖樹の枝が揺れ、古い葉が一枚だけ舞い落ちた。ミーリアはその葉を手のひらで受け止め、しばらく動かなかった。
背後で足音がした。振り返らなくてもわかる。フェリクスの足音だ。
「何かあったか」
「……聖樹の精霊が言っていました。『近い』と。『あの日が近い』と」
フェリクスは黙って聖樹を見上げた。風が深緑の髪を揺らしている。
「百年前の再来なら、準備がいる。まずは山の星脈を全部調べ直す」
「わたしも手伝います」
「明日からだ。今日は休め」
フェリクスが踵を返した。三歩歩いて、足を止めた。
「……一人で背負うな。ここには俺がいる」
そう言って、山道を下りていった。
ミーリアは聖樹の前で、落ちた葉を握りしめていた。手のひらの中で、葉が微かに光った。星脈の残り火のような、淡い白銀の光。
空に雲が流れている。今夜の月はまだ見えない。赤いのか、白いのか。わからないまま、ミーリアは祠に向かって小さく祈りを捧げた。




