第37話 大陸同時異変
薬草園の東端に置いた小さなテーブルで、ミーリアとフェリクスは夕食を取っていた。
ロッテが持たせてくれたパンと干し肉、それにミーリアが調合した薬草茶。簡素だが温かい食事だった。夕日が聖域山脈の稜線にかかり、谷間を橙色に染めている。
「今日の夕日、綺麗ですね」
ミーリアがパンをちぎりながら言った。熱が引いてから三日。体調はほぼ戻り、薬草園の手入れも再開していた。
「フェリクスさん、お代わりは——」
言葉が途切れた。
胸が、跳ねた。
心臓ではない。胸の奥にある核紋が、打ち付けるように脈打った。一度。二度。三度目で呼吸が詰まった。
パンが手から滑り落ちた。ミーリアが胸を両手で押さえ、テーブルに突っ伏す。
「ミーリア!」
フェリクスが立ち上がった。椅子が後ろに倒れる。
「大丈——」
言い終わる前に、体から光が溢れた。
星脈共鳴が勝手に発動していた。白銀の光がミーリアの両手から噴き出し、テーブルの天板を伝って地面に流れ込む。足元の薬草が一斉に光り始めた。葉の表面に白銀の筋が浮かび上がり、蛍のように明滅する。
〈痛い! 大地、痛い!〉
テラが悲鳴を上げた。土色の球体がミーリアの足元で激しく震えている。フィルが上空で旋回し、翡翠の光を乱れ撒いた。
「止められない……勝手に、力が……!」
ミーリアの瞳が白銀に染まっていた。涙が頬を伝い、光の粒になって散る。
地面が震えた。薬草園の土が波打つように揺れ、植えたばかりの苗の根元から光の線が走り出す。
星脈の脈動が体の中を駆け巡っている。自分のものではない振動だった。遠くから、途轍もなく遠い場所から伝わってくる震え。大地の奥底を流れる星脈が、歪み、軋み、叫んでいる。
「泣いている」
ミーリアが呟いた。涙声だった。
「星脈が……泣いている。どこか遠くで、何かが壊れかけている」
フェリクスがミーリアの肩を掴んだ。「おい、しっかりしろ」。しかしミーリアの意識は半分、地の底に沈んでいた。星脈の叫びが体を通過し、大地の痛みが自分の痛みと重なっている。
光が急速に収まった。
薬草の輝きが消え、地面の震えが止まる。ミーリアはフェリクスの腕の中で荒い息をついていた。額に汗が浮き、手が氷のように冷たくなっている。
「……止まった」
「大丈夫か」
「はい……たぶん」
フェリクスがミーリアをゆっくり椅子に座らせた。革水筒の蓋を開け、唇に当てる。水が喉を通り、体の芯の震えが少しだけ和らいだ。
〈ざわざわ。大地、震えた〉
テラが足元に張りついたまま動かない。フィルが肩に止まり、翡翠の光をそっと灯した。
ミーリアは自分の手を見た。指先が微かに白銀に光っている。星脈共鳴の名残だった。制御していないのに発動した。これまでそんなことは一度もなかった。
「何が起きた」
「わかりません。ただ、星脈が……大地全体で何かが起きたような感覚でした。近くじゃないです。もっと遠く、ずっと遠くで」
ミーリアは膝の上で拳を握った。核紋がまだ熱を持っている。星脈の叫びの残響が、骨の芯を振動させていた。
「方角は」
「……東と、南。二つの方角から同時に響いてきました」
フェリクスが眉を寄せた。東は迷宮都市の方角。南は帝都の方角。大陸を隔てた二つの場所で、同時に星脈が悲鳴を上げた。
テーブルの上に散らばったパンの破片が、まだ微かに震えている。地面の振動はとうに止まったのに、食器が鳴っていた。
フェリクスが薬草園の周囲を見回した。光った薬草はもう元に戻っている。しかし一部の葉が縮れていた。星脈共鳴の暴発で逆に消耗したのだ。
「薬草が……少し弱ってしまいました。明日、手当てしないと」
「それは明日でいい。今はお前の体だ」
フェリクスの声が低い。ミーリアの顔色を注視している。
「顔が白い。まだ震えてるだろう」
「少しだけ」
嘘だった。膝から下の感覚が薄い。椅子に座っていなければ立てない状態だった。
フェリクスの目が山の稜線に向いた。そして、足を止めた。
「……ミーリア。空を見ろ」
ミーリアが顔を上げた。
月が赤かった。
聖域山脈の上に昇り始めた月が、血を塗ったような深紅に染まっている。周囲の星も色が変わっていた。白から橙へ、橙から赤へ。空全体が不穏な色を帯びている。
「赤い月……」
「山守の言い伝えでは、不吉の印だ。百年前の大崩落の前夜にも月が赤く染まったと、祖母から聞いた」
フェリクスの声が硬い。精霊たちの反応を見ている。フィルが震えながらミーリアの首元に潜り込んだ。テラが土の中に半分沈んで動かない。アクアが水瓶の中で渦を巻いている。
「精霊たちが怯えてる。こんなのは初めてだ」
ミーリアは月を見上げたまま、拳を膝の上で握った。核紋がまだ微かに疼いている。星脈の叫びの残響が体に残っていた。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「わたし、この土地を——守りたい」
声が震えていた。「のんびり暮らしたい」。それが本音だった。今も変わらない。けれどこの地の薬草畑が、温泉が、ロッテの笑い声が、マルタの粥が、精霊たちの光が、壊れるのを黙って見ていることはできない。
フェリクスが黙ってミーリアを見た。赤い月の光に照らされた琥珀色の目が、静かに揺れている。
「……守れ。俺も一緒に守る」
短い言葉だった。けれどその声には、山守として生きてきた人間の覚悟が詰まっていた。
ミーリアは頷いた。涙を手の甲で拭い、もう一度月を見上げた。赤い光が谷間を染めている。精霊たちがミーリアの傍に集まり、小さな光を灯している。
〈守る。一緒に〉
フィルが首元から出てきて、ミーリアの頬に翡翠の光を当てた。テラが足元からゆっくり浮き上がり、フェリクスの靴の横で止まった。
風が変わった。山の上から冷たい空気が下りてくる。薬草園の花が揺れ、テーブルの上のパンくずが飛ばされた。
フェリクスが外套を脱ぎ、ミーリアの肩にかけた。
「冷える。中に入るぞ」
「もう少しだけ。月を見ていたいんです」
「……五分だ」
フェリクスが椅子に座り直した。外套の中はフェリクスの体温が残っていて温かかった。山の草と革の匂いがする。ミーリアは外套の襟を引き寄せた。
赤い月の下で、村の灯りが一つ、また一つと消えていく。夜が深くなる。けれどミーリアの胸の中には、守りたいものの輪郭がはっきりと浮かんでいた。
この谷。この空気。この人たち。
「のんびり暮らしたい」少女が、初めて「守りたい」と口にした夜だった。赤い月が、薬草園に座る二人の影を長く伸ばしている。フェリクスの手がテーブルの上に置かれていた。ミーリアの手と指一本分の距離。どちらも動かさなかった。
けれどその距離は、昨日よりも近かった。




