第34話 山守と聖女
カンマー村からの帰り道は、行きよりも長く感じた。
山道を歩くミーリアの足取りが重い。十二人の患者に星脈共鳴を施した疲れが、一晩寝ても抜けきっていなかった。こめかみに鈍い痛みが残り、足の運びがふらつく。
「休むぞ」
フェリクスが足を止めた。山道の脇にある小さな小屋を指している。
「ここ……フェリクスさんの小屋じゃないですか」
「番人小屋だ。寄っていけ」
山守の番人小屋。以前、薬草の乾燥標本を見せてもらった場所だ。石壁に木の屋根を載せた素朴な造り。扉を開けると、干し草と木の匂いがした。
中に入って、ミーリアは目を瞬かせた。
前に来た時より、物が増えている。棚の薬草標本はそのまま。壁の精霊の絵もそのまま。だが窓際に、小さな椅子が一つ増えていた。座面に厚手の布が敷いてある。その横に、畳まれた毛布。
「座れ」
「あの、この椅子——」
「前に言っただろう。もう一人分の椅子を置くって」
フェリクスは暖炉に火を起こしながら、こちらを見ずに言った。太い薪を組み、手際よく火を点ける。乾いた木が爆ぜて、小さな炎が踊り始めた。
「薬草の保管にちょうどいいと言ったのは、あんたのほうだぞ」
「はい。言いました」
ミーリアは椅子に座った。座面の布が体温を返すように温かい。厚手の布は、長く座っても痛くならない柔らかさだった。わざわざ選んで敷いたのだろう。
「毛布もあるんですね」
「山は冷える」
フェリクスが毛布をミーリアの膝に置いた。分厚い羊毛の毛布で、端が丁寧に縫い直してある。古いが清潔だった。
「ありがとうございます」
「寝ていい。飯を作る」
「え、わたし手伝い——」
「寝ろ」
有無を言わせない声だった。ミーリアは毛布を膝に広げ、椅子の背にもたれかかった。暖炉の火が壁に影を揺らしている。パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな小屋に満ちていた。
フェリクスが棚から鍋を取り出し、水を汲みに外へ出た。扉が閉まって、小屋が静かになる。フィルが窓枠に止まって翡翠色に光り、テラがミーリアの足元で丸くなった。
〈休む。ゆっくり〉
「うん……」
まぶたが重い。暖炉の熱が体に染み込んでくる。毛布が温かい。カンマー村での緊張が解けて、体の芯からだるさが這い上がってきた。
半分眠りに落ちかけた時、扉が開いた。
フェリクスの足音。水を鍋に注ぐ音。棚から何かを取り出す音。山菜を刻む、軽いとんとんという音。
ミーリアは目を閉じたまま聞いていた。体を動かす気力がない。けれど耳は起きている。
暖炉に鍋がかけられた。水が沸く前の、低い音。フェリクスが椅子に座った。ミーリアのそばではなく、扉に近い方の丸太の上。
沈黙が降りた。薪の爆ぜる音と、鍋の水が温まっていく微かな音だけ。
それから、フェリクスが口を開いた。
「フィル」
声が小さい。ミーリアに聞かせるつもりがないのだとわかった。
〈なに〉
「あいつは無茶をする」
〈うん〉
「十二人に星脈共鳴を使った。馬鹿だ。五人目で止めるべきだった」
〈でも、止まらなかった〉
「わかってる」
フェリクスの声は低く、固い。
「止められるのは俺しかいない。ロッテじゃ力で抑えられない。村長は優しすぎる。マルタは煽る側だ」
〈守る?〉
「守る」
〈ずっと?〉
沈黙が落ちた。鍋の水が微かに音を立てている。暖炉の火が揺れて、フェリクスの影が壁に大きく伸びた。
「……ああ。ずっとだ」
声が震えていた。ほんの微かに。岩を割るように硬い声が、最後の一言だけ薄い膜を被ったように揺れた。
ミーリアは目を閉じたまま、毛布の端を握りしめていた。胸の奥が温かい。星脈共鳴の温もりとは違う。もっと柔らかくて、もっと深い温もりだった。
眠りに落ちていった。
* * *
目を覚ましたのは、日が傾いてからだった。
窓から入る光が橙色に変わっている。暖炉の火はまだ燃えていた。誰かが薪を足したのだろう。
テーブルの上に、土鍋が置いてあった。蓋の隙間から白い湯気が立ち上っている。隣に木の匙と、水の入ったコップ。
ミーリアは毛布を肩にかけたまま、テーブルに近づいた。蓋を取ると、粥だった。山菜と干し肉が刻んで入っている。とろりとした表面に、薄い塩味の湯気が立つ。
窓の外を見た。
小屋の前に、フェリクスの背中があった。切り株に腰かけて、山の稜線を眺めている。フィルが肩に止まり、テラが足元に転がっていた。夕焼けに染まった横顔が、穏やかに見えた。
ミーリアは匙を取り、粥を掬った。口に運ぶ。
温かい。
出汁が効いている。山菜のほのかな苦みと、干し肉の旨味。塩加減がちょうどいい。飲み込むと、空っぽだった体の芯に温もりが広がった。
二口目。三口目。匙が止まらなかった。
「おいしい……」
声が小さく漏れた。目の縁が熱くなる。泣きそうだった。なぜ粥で泣きそうになるのか自分でもわからなかったが、温かいものを食べているだけなのに、涙が溜まっていく。
疲れているのだ。カンマー村で気を張り続けた二日間。患者たちの苦しむ顔。自分の力が足りないかもしれないという重圧。それが全部、この粥の温かさで溶け出していく。
ミーリアは粥を食べ終えた。匙を置いて、コップの水を飲んだ。
窓の外でフェリクスが立ち上がった。振り返らないまま、薪を拾って小屋に戻ってくる。
「起きたか」
「はい。お粥、いただきました」
「……そうか」
「とてもおいしかったです」
フェリクスが暖炉に薪を足した。火が勢いを増し、小屋が明るくなる。
「あの、フェリクスさん」
「なんだ」
「ありがとうございます。椅子も、毛布も、お粥も」
「……仕事だ」
いつもの返事だった。でもミーリアは知っている。これは仕事ではない。
「帰れるか」
「はい。もう大丈夫です」
「日が沈む前に発つぞ」
ミーリアは毛布を丁寧に畳んで、椅子の上に置いた。小屋を出ると、夕焼けが山肌を朱に染めていた。空気が冷たい。吐く息が白い。
フェリクスが先を歩き、ミーリアが後ろをついていく。山道は暗くなり始めていたが、フェリクスの背中が見えるから迷わない。
フィルが二人の間を飛んで、翡翠の光が道を照らしていた。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「……また、あの小屋に行ってもいいですか」
フェリクスの足が一瞬止まった。
「椅子は置いてある」
それは「いい」という意味だった。ミーリアには、もうわかる。
グリュンハイムの灯りが谷間に見えた。温泉の湯煙が夕闇に白く浮かんでいる。帰ってきた。ミーリアの口元がほころんだ。
足元で、枯れ葉がかさりと音を立てた。




