第33話 隣村の疫病
その知らせは、朝食の最中に届いた。
薬草園の作業台でパンをちぎっていたミーリアの前に、息を切らした若い男が駆け込んできた。服が泥だらけで、顔が青白い。
「薬草師さん! うちの村で病が出た!」
ロッテが男に水を渡した。男は一息で飲み干し、震える声で続けた。
「三日前から高熱が出る者が増えて、今朝は十二人になった。寝込んで起き上がれない。薬草を煎じたが、ちっとも効かない」
「どこの村だい」
「カンマーの村です。ここから北東に半日の——」
「カンマーか。山の向こうだね」
ロッテが顔をしかめた。カンマー村は谷間の小さな集落で、水源は山からの湧き水だという。冬の手前で体力が落ちる時期に、十二人は多い。
「行きます」
ミーリアがパンを置いて立ち上がった。
「ミーリア、何の病かもわからないんだよ」
「だから行くんです。原因がわからないなら、現地で確かめないと」
ロッテが渋い顔をしたが、ミーリアの目を見て口を閉じた。
薬草園の入口に、フェリクスが立っていた。いつ来たのか。男の話を全部聞いていたらしい。
「俺も行く」
「お願いします」
ミーリアは薬箱に調合済みの解熱薬と消炎薬を詰めた。念のため、万能解毒薬の材料も追加する。フェリクスが水と食料を背負い、二人で薬草園を出た。
フィルが翡翠色の光を散らしながら先行し、風の流れを探っている。
〈北。風、重い〉
「北からの風が澱んでいるらしい」
フェリクスが訳した。ミーリアは頷いて、山道を登り始めた。
* * *
カンマー村に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
谷間に五十軒ほどの家が並ぶ小さな村だった。石造りの家の窓が閉ざされ、通りに人影がない。静まり返っている。
村長の案内で、最初の患者のもとに向かった。石の壁に囲まれた暗い寝室に、四十代の男が横たわっている。額に汗が浮き、息が荒い。
「三日目です。熱が下がらない。食欲もなく、体を起こす力もない」
村長は声を落として言い、枕元の水差しを持ち上げた。中身は減っていない。
ミーリアは男の額に手を当てた。熱い。解熱薬を飲ませ、額を冷やした布で拭う。だが触れた瞬間、別のことを感じ取っていた。
指先から微かな情報が流れ込んでくる。大地の診断と同じ感覚。だが今、触れているのは土ではない。人の肌だ。
「……フェリクスさん」
ミーリアの声が低くなった。
「この方の体の中で、何かが詰まっています」
「詰まってる?」
「額に触れたときは、手のひらが熱いだけでした。手首を取ったら、脈の下に別の動きがあって」
ミーリアは男の腕に指を置き直した。肘から肩へ、少しずつ上へ滑らせる。
「その動きが、途中で止まります」
フェリクスの目が鋭くなった。
「星脈共鳴で、人体を診断したのか」
「はい……いいえ、したというか、触れたらわかったんです。大地の診断と同じ要領で」
ミーリアは患者の手を取った。掌を重ね、意識を沈める。目を閉じると、体の中の流れが見えた。温かい生命の脈動が四肢に巡っている。胸のあたりで細くなり、ほとんど止まりかけていた。
「ここです。胸の中心から左側にかけて、流れが堰き止められています」
白銀の光が掌から微かに漏れた。ミーリアの瞳の色が変わりかけて、すぐに戻る。
「星脈共鳴を……人に?」
「微弱に、です。大地に送るのと同じ要領で、詰まった場所をそっと押してみます」
「待て。危なくないのか」
「わかりません」
ミーリアは唇を結んだ。掌の汗を上着で拭う。
「でも、薬だけでは治らないかもしれません。流れを止めているものを取り除かないと、熱が引いても体力が戻らない」
フェリクスは数秒、ミーリアの顔を見つめた。それから短く頷いた。
「やれ。おかしいと思ったらすぐ止めろ」
ミーリアは息を整えた。
患者の掌に自分の手を重ねたまま、核紋に意識を向ける。星脈共鳴を、針の穴を通すほど細く、微かに発動させた。
白銀の光が掌を伝い、患者の手に流れ込んでいく。ほんの一筋。それが腕を遡り、肩を抜け、胸に到達した。
詰まっていた場所を、光がそっと押した。
患者の体が微かに震えた。呼吸が一瞬止まり、再び動き出す。深く、ゆっくりと。先ほどまでの荒い息とは違う。
「……あ」
患者が薄目を開けた。
「体が……楽に……」
「動かないでください。ゆっくり休んで」
ミーリアは解熱薬を溶いた白湯を椀に移し、男の口元へ運んだ。男は自分で首を持ち上げ、二口飲んだ。三口目で椀の縁を指が掴んだ。
「……村長さん。いるか」
「いる。ここにいる」
村長が枕元に膝をついた。男の手から椀を受け取り、何度も頷いた。
「三日間、何をしても下がらなかった熱が……」
「まだ油断はできません。でも、峠は越えたと思います」
* * *
日が落ちてから、ミーリアは十二人の患者を全員診た。
すべての患者に同じ症状があった。体内の生命力の流れが、胸の周辺で滞っている。ミーリアは一人ずつ手を取り、星脈共鳴で流れを通し、薬を飲ませた。
最後の患者を診終えた時、ミーリアの額には汗が浮いていた。大地に比べれば微弱な共鳴だが、十二人分の蓄積は軽くない。こめかみがじんじんと痛む。
「これ以上は駄目だ」
フェリクスが革水筒を差し出した。ミーリアは受け取って一口飲む。冷たい水が、火照った体を冷ました。
「ありがとう、ございます……」
「全員、同じ症状か」
「はい。体の中の流れが詰まっています。原因はわかりませんが、この村の水か土に何かがあるのかもしれません」
「明日、水源を調べる」
フェリクスが短く言い切って、水筒の栓を締めた。
村長が宿を用意してくれた。小さな部屋に、藁のベッドが二つ。ミーリアは横になると同時に意識が遠のいた。
暗闇の中で、フィルが額の上に止まり、翡翠色の微かな光で冷やしてくれていた。
* * *
翌朝。
ミーリアの薬を飲んだ患者の半数以上が、自分で起き上がれるようになっていた。村人たちが涙混じりに礼を言い、ミーリアの手を握った。
「ミーリアちゃん、他の患者さんも診てくれ!」
「昨日みんな診ましたよ。今日は安静にしてください」
「いや、うちの隣の婆さんも咳が出始めて——」
「わかりました。診ます」
村人たちの声に囲まれながら、ミーリアは新たな患者を診察していった。フェリクスが水源の調査に出かけ、テラが土壌の状態を探っている。
午後には、最初の患者が寝台に腰かけて粥を啜っていた。匙を自分で握り、椀を二度おかわりした。
「……すごいな。人にも効くんだな」
フェリクスが戻ってきて、回復した患者たちを見て呟いた。
「はい。でも……」
ミーリアは自分の手を見つめた。掌がまだ微かに震えている。
「人の体は、大地より繊細です。少しでも力の加減を間違えたら、流れを壊してしまうかもしれない」
「今はまだ……」
ミーリアは言葉を探した。
「今はまだ、わたしには荷が重いです」
フェリクスがミーリアの隣に立って、足元の薬箱を持ち上げた。
夕日がカンマー村の屋根を朱に染めている。患者たちが窓を開けて風を入れ始めた。
〈風、通った。良い風〉
フィルが夕焼けの中を飛んだ。翡翠の光が茜色に透けている。
ミーリアは薬箱の紐に手を伸ばした。指が二度、紐を滑った。




