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追放されたB級聖女ですが、辺境の大地がなぜか私にだけ歌いかけてきます  作者: 景都 (けいと)


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第32話 マルタの噂話

温泉の湯煙が、夕暮れの谷間を白く染めていた。


 マルタの宿の裏手にある露天風呂。源泉に近い岩風呂で、星脈の温もりが湯に溶け込んでいる。ミーリアは肩まで湯に浸かり、長い息を吐いた。全身の力が解けていく。


「あんたも来な、ロッテ」


「今行くよ」


 ロッテが岩を跨いで湯に入った。ざぶん、と豪快な音が立つ。波紋が広がり、湯面に浮かんでいたアクアの光がちらちらと揺れた。


〈揺れた〉


 アクアが水面の下で青い光を点滅させた。


「ごめんなさい、アクアさん。びっくりしましたよね」


〈大丈夫〉


 マルタが湯の中で髪を持ち上げながら、にやりと笑った。


「はい。全員揃いましたね」


「何が揃ったんですか?」


「女子会よ、女子会」


 ミーリアは首を傾げた。その言葉には聞き覚えがある。遠い記憶の隅で、誰かが同じことを言っていた気がするけれど、それ以上は思い出せない。


「さて、本題に入りましょう」


 マルタが両手を湯の中で組んだ。温泉宿の女将が仕入れ先と値段交渉をする時の顔になっている。


「ミーリアちゃん」


「はい」


「フェリクスとは、どこまで進んだの?」


 湯気の向こうで、ロッテが口元を押さえた。


「え、えっと……どこまでって……」


 ミーリアの声が裏返った。湯に沈んでいた肩が浮き上がり、水面が波立つ。


「薬草採取には一緒に行きましたけど」


「そうじゃなくて!」


 マルタが湯を叩いた。飛沫がミーリアの顔にかかる。


「あたしが聞いてるのは、薬草の話じゃないのよ。二人きりで山に入って、何かなかったの?」


「何か、というのは……」


「手を握ったとか。目が合って離せなくなったとか。あわやの瞬間があったとか」


 ミーリアの顔が耳まで赤くなった。湯のせいだけでは説明がつかない赤さだった。


「て、手は……足を滑らせた時に、掴んでもらいました」


「それで?」


「それだけです。すぐ離してくれました」


「離しちゃったの!?」


 マルタが天を仰いだ。ロッテが腹を抱えて笑っている。


「あの朴念仁……」


「ミーリアも大概だよ。掴まれた手を離さなきゃいいのに」


「えっ、離さないって……そんな、はしたないですよ」


「はしたなくないわよ! 山の中で二人きりなんだから、もう少し——」


「マルタさん!」


 ミーリアが湯に顔を沈めかけた。鼻先まで湯面に浸かり、ぶくぶくと泡を出している。


 ロッテが笑いを収めて、少し真面目な顔になった。


「ミーリア。あんた、あの男のことをどう思ってるんだい」


「どう、って……」


 泡が止まった。ミーリアが顔を上げる。湯気の向こうに、ロッテの目がある。


「フェリクスさんは、わたしの練習に付き合ってくれて、山の案内もしてくれて、毎朝水を運んでくれて……大切な人です」


「大切ね」


「はい。大切な——」


 口にした瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


 大切。その一言では足りない。もっと違う何かがある。フェリクスの声が聞こえると胸が温かくなる。あの人がそばにいると安心する。琥珀色の目がこちらを見る時、視線を外せなくなる。


「……えっと」


 ミーリアは言葉を探した。でも見つからない。


「わたし、もしかして……」


「気づいた?」


 マルタが身を乗り出した。


「あんた、あの男が毎朝暗いうちに花を摘んでるって知ってるかい?」


 ロッテが追い打ちをかけた。フィルに教えてもらった日のことを思い出す。朝露の残った山百合。暗いうちに摘まなければ、ああはならない。


「知ってます……フィルさんが教えてくれました」


「それでまだ気づかないんだから、あんたも相当だよ」


「あの人は、あんたのことしか見てないわよ。宿で夕飯を食べてても、あんたの話をする時だけ箸が止まるの。面白いくらいわかりやすい」


 ミーリアの心臓が速くなっていた。湯の中で、指先が微かに震えている。


「でも、フェリクスさんは、わたしのことを……そんなふうには……」


「言ってないだけだよ。あの男は言葉が致命的に足りないんだ」


「足りないどころじゃないわ。絶望的よ」


 二人が声を揃えた。


 ミーリアは湯の中で膝を抱えた。頬が熱い。体が熱い。温泉の熱さとは別の熱が、胸の奥からこみ上げてくる。


 あの人のことが。

 あの人の声が。あの人の、不器用な優しさが。


「ところでさ」


 マルタが湯面に顎を載せるようにしながら、ロッテに目配せした。


「ロッテは若い頃、どうだったのよ。旦那さんとの馴れ初めは」


「あたしの話なんかどうでもいいだろう」


「ミーリアちゃんの参考になるかもしれないじゃない」


 ロッテが鼻を鳴らした。湯の中で足を伸ばし、岩壁にもたれかかる。


「うちの人はね、三年間毎日、薬草園の柵を直しに来てたんだ」


「柵を?」


「壊れてもいないのに、毎朝来て、板を一枚外して、また嵌め直して帰っていくんだよ。あたしが何をしてるのか聞いたら、『点検だ』って」


 マルタが吹き出した。ミーリアも思わず笑った。


「それ、フェリクスとそっくりじゃない」


「だから笑ってんだよ。血は繋がってないのに、山の男ってのは代々こうなのかね」


 ロッテの声が柔らかくなっていた。亡くなった夫のことを話す時だけ見せる、穏やかな目。


「三年目の冬に、あたしが風邪をひいて寝込んだ。そしたらうちの人が柵じゃなくて玄関に来て、鍋を持ってたんだ。山菜の粥。不格好だったけど、温かかった」


 ミーリアの胸がきゅっと締まった。山菜の粥。温かい鍋。不器用な男が、言葉の代わりに差し出すもの。


「それで、どうなったんですか」


「粥を食べて、泣いたよ。そしたらうちの人が慌てて、まずかったかって聞くんだ。あたしは首を振って、おいしいって言った。それだけ」


「……それだけ?」


「それだけだよ。でもね、それだけで十分だった」


 湯煙の向こうで、ロッテが目を細めた。


「言葉がなくても、わかることはある。あんたなら、もうわかってるんじゃないかい」


 ミーリアは答えられなかった。ただ、湯の中で指先を握った。


* * *


 湯から上がると、夜風が冷たかった。


 脱衣場で髪を拭きながら、ミーリアはまだ顔が火照っているのを感じていた。ロッテとマルタが先に上がって、宿の中に入っている。

 アクアが源泉のほうへ青い光を曳いて戻っていった。湯面が静かに揺れて、星の光を映している。


 外に出た。


 宿の軒先に、人影があった。


 フェリクスだった。壁に背を預けて腕を組んでいる。夜風に深緑の髪が揺れていた。


「フェリクスさん? どうして——」


「……湯冷めするぞ」


 フェリクスが外套を脱いだ。畳まずに、そのままミーリアの肩にかけた。

 外套は山の匂いがした。木の葉と、土と、風の匂い。フェリクスの体温が残っていて、肩から温もりが染み込んでくる。


「あ、ありがとう、ございます……」


 声がうわずった。さっきのマルタとロッテの言葉が頭の中を駆け巡っている。


 フェリクスはミーリアの顔を見なかった。視線を宿の屋根の上——星空に向けている。


「明日、山に入る。薬草が出てるらしい。一緒に来い」


「はい。行きます」


「……朝は早い。寝ろ」


 それだけ言って、フェリクスは背を向けた。暗い山道を歩いていく。松明も灯さない。この道を毎日歩いているから、暗闇でも迷わないのだ。


 宿の二階の窓が開き、ロッテとマルタが顔を出していた。にやにやしている。ミーリアだけがそれに気づかなかった。


 外套の襟を握りしめた。

 温かい。この温もりの正体を、もう知らないふりはできなかった。


 空には星が散らばっている。グリュンハイムの夜は、いつだって星が近い。

 ミーリアは外套を深く羽織り直した。山の匂いが鼻先をかすめて、胸の奥がきゅっと締まった。

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