第03話 山守の男
翌朝、ミーリアは薬草畑を見学に出かけた。
ハンス村長が「畑の管理人に紹介するから」と言ってくれたのだ。宿の階段を下りると、マルタが朝食を押しつけてきた。焼きたてのパンと山羊のチーズ、温泉で茹でた卵。パンが熱くて、割ると湯気が立った。
「畑は坂を上がった先よ。道に迷ったらフェリクスに聞きなさい、山守の男だから」
「山守?」
「この辺りの山を見回ってる人。精霊の番人とかなんとか、代々やってる家系なの。無愛想だけど悪い人じゃないわ。たぶん」
たぶん、という言葉が少し気になったが、ミーリアはパンを頬張りながら坂道を登った。朝の空気が冷たくて気持ちいい。霧が薄く谷間を覆い、薬草畑の緑が露に濡れて光っている。
薬草畑は集落の高台にあった。
段々に整備された畑が山の斜面に沿って幾段にも連なり、区画ごとに異なる薬草が植えられている。帝都の薬草園は石壁に囲まれた温室だったが、ここは空に開けている。朝霧の中で葉が露に濡れ、光を弾いていた。遠くで鳥が鳴いている。
畑の入口に、人が立っていた。
長身の男だった。日に焼けた肌、深い森緑の短髪。革の外套を羽織り、腰に山刀を下げている。腕には古い傷跡が幾筋も走っている。琥珀色の瞳がミーリアを捉えた。
目が合った瞬間、ミーリアの足が止まる。帝都の貴族とはまるで違う目だった。飾り気がなくて、真っ直ぐで、冷たい。
「……帝都の娘か。ここは甘くないぞ」
声は低く、素っ気なかった。挨拶もなければ名乗りもない。
ミーリアは反射的に一歩退いた。
「え、えっと、わたし、ミーリアと申します。村長さんに薬草畑を見せていただけると——」
「見るだけなら勝手にしろ。踏み荒らすな」
男はそれだけ言うと、畑の奥に歩いていった。長い脚が畝を跨ぎ、薬草の一本も踏まずに段差を降りていく。慣れた足取りだ。背中が語っている。帝都から来た人間に興味はない、と。革の外套の裾が朝風に揺れた。
ミーリアは小さく息を吐いた。肩の力が抜ける。帝都の貴族たちの冷たい視線とは違う種類の冷たさだったが、拒絶されたことに変わりはない。
「あの方が、山守さん……マルタさんが無愛想と言ってたのは、こういうことですか」
マルタの「たぶん」が頭の中で反響した。悪い人じゃない、たぶん。あの「たぶん」には実感がこもっていた。
気を取り直して畑に足を踏み入れる。畝の間を慎重に歩いた。根を踏まないように爪先で進む。
薬草の匂いが鼻をくすぐった。この匂いは知っている。理由はわからないけれど、懐かしいと感じる。緑の葉に朝露が溜まっていて、指先で触れると冷たい雫が落ちた。
帝都の薬草園にもこの品種はあった。石壁の温室の中で、魔力灯の人工光を浴びて育った薬草。でも匂いが違う。ここの薬草は、もっと生き生きしている。葉の緑が深くて、茎が太い。地面の下から力を吸い上げている植物の匂いだ。
「いい匂い……」
ミーリアは思わず呟いた。しゃがみ込んで、葉に顔を近づける。朝露の冷たさと、薬草の温かな香り。胸の奥で、何かが応えるように脈打った。
そのとき、肩に何かが止まった。
軽い。羽毛よりもまだ軽い。
翡翠色の光が視界の端で明滅している。昨夜の蝶だ。朝の光の中で見ると、半透明の羽が宝石のように煌めいている。
「あ、あなたは昨日の……」
蝶はミーリアの肩の上で羽を畳み、満足そうに光の強さを落とした。居心地がいいとでも言うように、すっかり落ち着いている。体温のような微かな温もりが肩に伝わってくる。
「っ——」
息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、先ほどの山守の男が数歩先で立ち止まっていた。琥珀色の瞳が見開かれている。つい先程まで無表情だった顔に、明らかな動揺が走っていた。
視線はミーリアの肩に止まった蝶に釘付けだった。
「……精霊が、懐いた?」
男の声から、先ほどの無関心が消えていた。低い声に緊張が混じっている。
「帝都から来た人間に?」
「え、精霊……? この子が?」
ミーリアが肩の蝶を見ると、翡翠色の蝶は得意そうに羽を広げた。光が一段と強くなる。朝露を弾いて、小さな虹が散った。
「フィルだ」
男が低い声で言った。一歩、ミーリアに近づく。
「風の精霊。この辺りに棲みついてる。……人間には滅多に姿を見せない。帝都の人間になど、なおさら」
「フィルさん、ですか。綺麗な名前ですね」
ミーリアがフィルに微笑みかけると、蝶は羽ばたいた。光の粒が舞い散り、朝霧の中に翡翠色の軌跡を描く。ミーリアの栗色の髪に光の粒が降り注いで、一瞬だけ翡翠色に染まった。
ミーリアは手のひらを上に向けた。フィルが肩から手のひらに移り、翡翠色の羽を畳んで座り込んだ。手のひらに温もりが広がる。心臓の鼓動に合わせるように、フィルの光が明滅した。
「わあ……温かい。生きてるんですね、ちゃんと」
男が一歩、また近づいた。琥珀色の瞳が細まっている。奥に、何かを計りかねるような色が浮かぶ。驚きの中に、もっと深い何か。この男が精霊の番人の家系だとしたら、今の光景が持つ意味を、ミーリアよりも遥かに正確に理解しているのだろう。
「……精霊が懐いたということは、お前は——」
言いかけて、男は口を閉じた。唇を引き結ぶ。
「いや、帝都の貴族の娘に精霊が懐く理由は一つしかない。だが、まさかな」
「あの、えっと、理由って何ですか?」
「……知らなくていい。今はまだ」
「今はまだ? いつかは教えてもらえるんですか?」
「……」
男は答えなかった。顎を引いて、何かを飲み込むように唇を閉じた。
「え、気になります。教えてくださいませんか」
「知らなくていいと言っただろう」
男は背を向けて歩き出した。声が少しだけ荒い。革の外套が朝風を受けて翻る。
ミーリアは呆然とその背中を見送る。フィルが肩の上で小さく羽ばたき、男の方を向いた。
三歩。六歩。九歩。
男は三歩ごとに振り返っていた。
気づいていないのか、それとも気づいているのに止められないのか。琥珀色の瞳がちらりとミーリアを捉え、すぐに逸らされる。そのたびに歩調が微かに乱れた。森緑の短髪に朝露が光っている。
振り返り、目を逸らし、また振り返る。五歩進んでは振り返り、次の三歩で視線を逸らし、また振り返る。畑の端まで来て、一度だけ足を止めた。何か言おうとしたのかもしれない。しかし結局何も言わず、男の姿が段々畑の向こうに消えた。
「フィルさん、あの方……なんだか、不思議な人ですね」
フィルが翡翠色に明滅した。
それが肯定なのか否定なのか、ミーリアにはまだわからなかった。
ただ、あの琥珀色の瞳が見つめていた先には、精霊ではなくミーリア自身がいたのだと。
それに気づくのは、もう少し先のことだ。




