第02話 温泉の里グリュンハイム
馬車が揺れるたびに、窓の外の景色が変わっていく。
帝都の石畳が消え、整備された街道が土の道に変わり、やがて道そのものが細くなった。両脇に森が迫る。木々の隙間から射す光が、鬱蒼とした緑を金色に染めている。
ミーリアは馬車の窓枠に頬を預けていた。揺れが背中に響く。帝都を出て三日。持たされた路銀は銀貨が数枚。着替えは荷袋ひとつ分。
三日目の朝だった。
馬車の御者が手綱を引き、車輪が軋んで止まる。
「お嬢さん、ここから先は馬車が入れねえ。あの峠を越えた谷間が、グリュンハイムだ」
「ありがとうございます。ここまでで結構です」
ミーリアは荷物を抱えて馬車を降りた。御者が「気をつけなよ」と手を振って去っていく。砂利道に車輪の跡が残った。
一人になった。
周囲は森だ。鳥の声がする。木漏れ日が地面に斑模様を作っている。
吸い込んだ空気に、思わず目を閉じる。
甘い。草の匂い。土の匂い。そして微かに硫黄の混じった、温かい風。帝都の空気とはまるで違った。帝都は石と埃と魔力の匂いがした。ここは生きている匂いがする。体の芯がほどけていくような感覚に、ミーリアは自分でも驚いた。
峠は急だった。
道とも言えない獣道を登り、岩場を迂回し、苔むした倒木を跨ぐ。荷物が肩に食い込んで痛い。額に汗が浮かぶ。帝都の宮廷暮らしで鈍った体が悲鳴を上げている。
途中で足を滑らせ、泥に膝をついた。スカートの裾が汚れる。帝都なら侍女が大騒ぎする程度の汚れだが、今はそんなことを気にする人間はいない。
「……大丈夫。立てる」
自分に言い聞かせて、また歩く。一歩、一歩。呼吸が荒い。でも足を止める気にはならなかった。あの回廊で立ち上がると決めたのだ。
峠を越えた瞬間、息を呑んだ。
谷間が広がっていた。
白い湯煙が幾筋も立ち上っている。薬草畑の緑が斜面を覆い、その合間に木造の家々が点在する。小さな集落だ。遠くに聖域山脈の稜線が霞んで見える。雪を頂いた峰が午前の陽光を受けて白く輝いていた。
空気の中に光の粒が舞っていた。陽光の反射とは違う、淡く揺れる小さな光。ミーリアが手を伸ばすと、光の粒は指先をすり抜けて消えた。
「おお、あんたがローゼンクロイツの」
坂道の上から、白髪の老人が手を振りながら降りてきた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。背は少し曲がっているが、足取りはしっかりしている。穏やかな目をした人だった。
「ハンスと言います。この村の村長を務めております。遠いところからよく来なさった」
「は、はい。ミーリアです。よろしくお願いします」
ミーリアが頭を下げると、ハンス村長は困ったように笑った。
「頭を上げなさい、ミーリアさん。ここでは誰も肩書きなんぞ気にしない」
「でも、わたし、追放されてきた身で……ご迷惑では」
「迷惑?」
村長は首を傾げた。本心から不思議そうな顔をしている。
「帝都で何があったかはお父上からの手紙で聞いておるが、この村に来てくれるだけでありがたい。若い働き手は貴重でね。それに——」
村長が谷間を見渡した。湯煙、緑の畑、木造の家々。
「ここは何もない田舎だが、空気だけは天下一だ。保証するよ」
村長に案内されて、集落の中を歩く。
石畳ではなく踏み固められた土の道。道端で薬草を束ねている老婆が「新しい子かい、ようこそ」と声をかけ、井戸端で水を汲む女性が「よく来たね」と微笑む。鍛冶屋の前を通ると、金属を打つ音と火花が飛んでいた。子供たちが三人、物珍しそうに後ろをついてくる。
誰も、ミーリアの出自を問わなかった。偽聖女だの追放だの、そういった言葉は一つも聞こえてこない。胸の奥で、何かが緩んでいく。
「こちらがマルタさんの温泉宿です。しばらくここに泊まるといい」
木造二階建ての宿の扉が勢いよく開いた。
「いらっしゃい! あんたがミーリアちゃんね! 聞いてるわよ、帝都から来たって。もう大変だったでしょう? お部屋は二階の奥、温泉は裏手から行けるから、荷物置いたらすぐ入りなさいね、疲れてるでしょう、ご飯はこっちで出すから心配しないで!」
マルタという女性は一息にそれだけ言うと、ミーリアの荷物を半分奪い取って階段を駆け上がっていった。三十代だろうか。赤い頬と大きな目。声が宿中に響いている。
「あの……ありがとうございます」
ミーリアの声は届いたのかどうか。階段の上からマルタの笑い声だけが降ってきた。
* * *
二階の窓から、グリュンハイムの夕暮れが見えた。
湯煙が夕焼けに染まって淡い橙色に光っている。薬草畑の向こうに聖域山脈のシルエット。空が藍色に変わっていく中で、集落のあちこちに灯りが点る。竈の煙、笑い声、犬の鳴き声。生活の音が谷に満ちている。
ミーリアは窓枠に頬杖をついた。
帝都の夜は眠れなかった。宮廷の廊下を歩くたびに背中に刺さる視線。「あの子がB級の聖女候補?」という囁き。布団に入っても体が強張って、天井の暗がりを朝まで見つめていた。
ここの空気は違う。
肺の奥まで沁み込んでくるような温かさがある。窓から入る風に硫黄の匂いが混じっている。胸の奥で何かが「ここだ」と囁いている。根拠はない。でも、そう感じた。
マルタが運んできた夕食を食べた。山菜の煮物と焼いたパン、温泉で茹でた卵。素朴だけれど、体の芯まで温まる味だった。帝都の宮廷料理は見た目は華やかでも、どこか冷たい味がした。ここの料理は違う。土の匂いがする。生きている味がする。
帝都の宮廷料理より余程おいしいと思って、自分で少し驚いた。
マルタが食器を下げに来たとき、「温泉、入った?」と聞かれた。
「まだです。あの、温泉ってどうやって——」
「裏手の戸を開けて石段を降りるだけよ! タオルは棚にあるから。星が綺麗に見える時間帯だし、今がちょうどいいわ」
言われるままに裏手に回ると、岩を積んだ露天の湯船があった。白い湯煙が立ち上り、湯面に星が映っている。恐る恐る足を入れた。
温かい。
体の芯から解けていくような温もりだった。帝都の水浴びとは根本的に違う。地面の下から湧き出る熱が、骨の奥まで染み込んでくる。
「はぁ……」
肩の力が抜けて、知らないうちに深い溜息が漏れた。湯に浸かりながら空を見上げる。星が近い。帝都の夜空とは比べものにならないほど、星が多い。
部屋に戻り、布団に入った。
体がぽかぽかと温かい。目を閉じると、すぐに瞼が重くなった。帝都では何時間も寝つけなかったのに。
窓の外に目を戻したとき、ミーリアは息を呑んだ。
翡翠色の光が飛んでいる。
小さな蝶のような形をした、手のひらほどの光。湯煙の中をふわりふわりと漂いながら、宿の窓に近づいてくる。虫ではない。光そのものが、意志を持っているように動いている。羽のように見える部分が上下し、翡翠色の軌跡を夕闇に描いていた。
蝶がミーリアの顔の前で止まった。
翡翠色の光が明滅する。まるで呼吸をするように。温かい気配が頬に触れた。
「え、あの光……虫、じゃないですよね?」
ミーリアは窓から身を乗り出した。
翡翠色の蝶は後ずさるように離れ、くるりと一回転してからまた近づいてくる。光の明滅が速くなった。
「なんだか、わたしに話しかけてるみたいに」
蝶の光が、一際強く輝いた。




