第29話 帝都の反応
帝都イグナシオンの宮廷大広間は、冬でも薄暗い。
高い天井から吊るされた燭台の炎が壁面の金箔を照らし、影が石柱の間を這っている。広間の奥、玉座の前に設えられた長卓を囲んで、宮廷高官たちが座っていた。
帝国聖女クラリッサ・エーデルシュタインは、その長卓の末席にいた。
聖女の席は常に末席だ。発言権はあるが、議決権はない。飾りの椅子。クラリッサはそれを知っていて、背筋を伸ばしていた。
「では、辺境からの報告について」
宮廷第三局の局長が羊皮紙を広げた。痩せた男の声が広間に響く。
「辺境自治区グリュンハイムに在住の元聖女候補、ミーリア・ローゼンクロイツ。先日の調査で確認された能力は、既存の七属性のいずれとも一致しない星脈への直接干渉です」
高官たちがざわめいた。椅子が鳴り、衣擦れの音が広間に反響する。
「直接干渉? 属性魔法を介さずにか」
「属性変換を経由せず、星脈に直接共鳴するのか。前例はあるのかね」
「百年前の大聖女アリーシアの記録に類似点がございます」
局長の言葉に、広間が一瞬静まった。大聖女の名は、この宮廷では重い。百年前の大崩落を止めた救世主であり、帝国の守護の象徴でもある。
「報告書によれば、枯死した農地を数分で蘇生させた。しかも範囲は半径十五メートル以上。現聖女クラリッサ様の浄化の儀は半径三メートルが上限であり——」
「局長」
クラリッサの声が割り込んだ。穏やかな声だった。微笑みさえ浮かべている。
「辺境の薬草師の噂は、わたくしも耳にしておりますわ。しかし、正式な聖光の儀を経ていない者の力を、宮廷の場で議論するのは早計ではありませんこと?」
「もちろんです、聖女様。しかし大陸中に噂が広がっており、帝国の威信にも——」
「威信は、わたくしがお守りいたしますわ」
微笑みは崩れなかった。声の温度も変わらなかった。
ただ、膝の上に置いた手が白くなっていた。長卓の下で、爪が掌に食い込んでいる。
高官たちの視線がクラリッサに集まった。問いかけるような目。疑うような目。推し量るような目。三年前、この大広間で「帝国聖女」の称号を授かった日には、全ての目が崇敬の色をしていた。今は違う。
「聖女様のおっしゃる通りです。正式な調査が済むまで、判断は保留しましょう」
局長が頭を下げた。声は丁寧だったが、「保留」という言葉が重かった。保留は否定ではない。だが肯定でもない。
* * *
会議が終わり、高官たちが席を立つ。
クラリッサは聖女の控え室に戻った。侍女を下がらせ、扉を閉める。鍵を回す音が、静かな部屋に響いた。
椅子に座り、「聖光の器」を取り出した。
水晶玉の中で、淡い光が揺れている。安定しない。先月のメンテナンスから出力が落ちている。エーデルシュタイン家に技術者の派遣を要請したが、返答がまだ来ない。
「不安定……。なぜ」
器を両手で包み、目を閉じた。光属性の魔力を注ぎ込む。水晶玉が明るくなり、一瞬S級相当の光を放つ。だがすぐに減衰し、A級の輝きに戻った。
クラリッサの唇が引き結ばれた。
立ち上がり、窓辺に歩いた。帝都の街並みが眼下に広がっている。石造りの建物が連なり、大通りを馬車が行き交う。遠くに星神教の大聖堂の尖塔が見える。
「辺境の娘が聖女の奇跡……。馬鹿馬鹿しい」
声は硬かった。
「光属性B級の小娘が、聖光の儀で何も発動しなかった娘が。今さら何をしたというの」
窓枠に手を置いた。爪が石を引っ掻く。
「わたくしは帝国聖女です。エーデルシュタイン家の名にかけて。この座は、わたくしのもの」
言い聞かせるように繰り返した。二度、三度。
だが窓の外に映る自分の顔は、笑っていなかった。
* * *
夜が更けた。
クラリッサは控え室の椅子に座ったまま、報告書の写しを読み返していた。蝋燭の炎が揺れ、文字の上に影が落ちる。
「枯死した土壌を数分で蘇生。光の色は白銀。瞳の色が変化する」
白銀。光属性の金色ではない。クラリッサの光属性とは根本的に異なる力。
報告書を閉じた。
立ち上がり、部屋の奥の衣装棚を開けた。棚の上段に、一枚の絵がある。大聖女アリーシアの肖像画の複製。銀色の髪。白い法衣。大地に手を当て、光を放つ姿。
光の色は——白銀だった。
クラリッサの指が肖像画の縁を掴んだ。
「百年前の大聖女と同じ力。それを、あの娘が」
沈黙。
蝋燭が一つ消えた。部屋が少し暗くなった。
「聖光の儀は光属性の出力を測定する儀式。星脈への直接干渉は……測定の対象外」
つまり、聖光の儀でミーリアが何も発動しなかったのは当然だった。測定の仕組みが、あの力を拾えなかっただけだ。
その事実がクラリッサの胸を抉った。
ミーリアは偽物ではなかった。聖光の儀が、偽物だった。
「……それでも」
クラリッサが肖像画を棚に戻した。手が震えている。
「それでも、わたくしが聖女です。この帝都で、この宮廷で、わたくしが。辺境の噂などに、揺らぐものですか」
声が震えていた。言葉の強さと裏腹に、声だけが本当のことを告げていた。
* * *
深夜の控え室。
クラリッサは机に向かい、便箋を広げていた。ペン先にインクをつけ、一行書いて止まる。また書いて、止まる。
宛先は姉フローラ。エーデルシュタイン公爵家の長女にして、ヴァレンシュタイン家のディートリヒの婚約者。
「姉上」
呟いた。ペンが紙の上で震える。
「姉上のお力添えがあれば。ディートリヒ様と婚約なさった姉上なら……」
インクが紙に滲んだ。文字にならなかった。何を書けばいいのかわからない。「聖光の器が壊れそうです」と書けば、エーデルシュタイン家の秘密を文書に残すことになる。「辺境の娘が本物かもしれません」と書けば、自分が偽物だと認めることになる。
ペンを置いた。
便箋を丸めて、蝋燭の炎にかざした。紙が燃え、灰が机に落ちた。
「姉上……」
クラリッサの声は、誰にも届かない夜の宮殿に消えた。
窓の外、帝都の空は曇っていた。星は一つも見えない。
* * *
——同じ夜、辺境自治区グリュンハイム。
温泉の湯煙が月明かりに白く光っていた。
ミーリアは宿の窓から空を見上げていた。星が静かに瞬いている。フィルが窓枠に止まり、翡翠色の光をゆっくりと明滅させていた。
〈静か。今夜、静か〉
「そうだね、フィルさん。今夜は星が綺麗」
ミーリアは窓を閉め、寝台に横になった。聖樹で見た映像がまだ胸に残っている。百年前の大聖女の涙。あの方はこの同じ空を見上げて、何を思っていたのだろう。
目を閉じた。
星の光が瞼の裏に揺れて、やがて眠りに落ちた。帝都の夜と辺境の夜は、同じ空の下にあるはずなのに、まるで別の世界のように静かだった。




